生と生き方 | Tarih-i Bosna

Tarih-i Bosna

ボスニア近代史を中心に: 備忘録

フランチェスコ会系定期刊行物から

匿名: 1889: 汝の家に赴き、日々の仕事に従事し、至る所で正義と真実の為に戦え。

Idite vašim kućama, na vaš obični rad i posao i svugdje vojujte i borite se za pravdu i istinu.

 

わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし大人となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見る様に、おぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られている様に、完全に知るであろう。[コリント人への第一の手紙: 139から12]

 

朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つ共に良いであるか、あなたは知らないからである。[伝道の書: 116]

 

匿名: 1889: 私たちが約束したことを履行すれば、約束したことを神は履行する。

Bog što obeća ono izpuni, ako mi izpunimo ono što smo obećali.

 

私達は神との約束を知っている。そしてその履行に応じて対価が齎されることも知っている。勤労が求められるのは「生き方」に価値が置かれるからである。同時にその「生き方」を評価するのは自己ではなく、他者(こここでは神)である。この評価が当事者にとっては不可知である。新教・旧教関係なく、洋の東西に関係なく、「心」の問題である「生き方」が評価の対象となる時、「生き方」は非常に窮屈になる。

唯だ「生ζωή」として「侍」であることが許容された時代と「生き方βιος」としてのみ「侍」が許容された時代との差異。どちらが幸福であるかは別として。

 

匿名: 1889: 公私を通じてかかる能動的信仰を示す義務が汝にはある。

Ovu su djelotvornu vjeru dužni pokazati i na sami i na javi.