周防監督の映画「それでもボクはやってない」を観た。
監督はこの映画を制作するために、数年かけて聞き込みを行ったようである。
そのためか、劇中にはデータや裁判の実態が散りばめられていた。
裁判は真実を明らかにする場ではない
というメッセージは印象に残った。裁判所は行政府と絡んで、官僚的な機構であることを思い知らされた。
現に、満員電車で女子高生に「痴漢したでしょ」と咎められたら、元も子もない。
劇中にもあったように、「やってない」ことを証明するのは、「やった」ことを証明するより、明らかに難しいからだ。
これは、以前観た陪審員の映画「12人の怒れる男たち Twelve Angry Men」とも通じるところがある気がする。
父親殺しの罪に問われたスラムの少年を、11人の陪審員が有罪としたにも関わらず、1人(主人公)が有罪と言える明確な根拠がないと言って、最後には全員無罪とする映画である。
ここでの主人公の主張は、上記の「やってない」ことを証明することの難しさを十分理解した上でのものだったと取ることができる。
基本的に検察が原告となる刑事裁判を無罪とすることは、国家に楯突くことになる。
しかし、真に裁判が裁くべき人を裁く場たるためには、無罪の可能性も十分に踏まえて議論されてしかるべきである。
この矛盾はどのように解決すればよいのだろうか。
これまでいくつかの裁判もの映画を観てきたが、上記のような根本的な問題を浮き彫りにさせたという点から、堤真一主演の「刑法9条」よりも、奥深い作品だったと言えるのではないだろうか。
監督はこの映画を制作するために、数年かけて聞き込みを行ったようである。
そのためか、劇中にはデータや裁判の実態が散りばめられていた。
裁判は真実を明らかにする場ではない
というメッセージは印象に残った。裁判所は行政府と絡んで、官僚的な機構であることを思い知らされた。
現に、満員電車で女子高生に「痴漢したでしょ」と咎められたら、元も子もない。
劇中にもあったように、「やってない」ことを証明するのは、「やった」ことを証明するより、明らかに難しいからだ。
これは、以前観た陪審員の映画「12人の怒れる男たち Twelve Angry Men」とも通じるところがある気がする。
父親殺しの罪に問われたスラムの少年を、11人の陪審員が有罪としたにも関わらず、1人(主人公)が有罪と言える明確な根拠がないと言って、最後には全員無罪とする映画である。
ここでの主人公の主張は、上記の「やってない」ことを証明することの難しさを十分理解した上でのものだったと取ることができる。
基本的に検察が原告となる刑事裁判を無罪とすることは、国家に楯突くことになる。
しかし、真に裁判が裁くべき人を裁く場たるためには、無罪の可能性も十分に踏まえて議論されてしかるべきである。
この矛盾はどのように解決すればよいのだろうか。
これまでいくつかの裁判もの映画を観てきたが、上記のような根本的な問題を浮き彫りにさせたという点から、堤真一主演の「刑法9条」よりも、奥深い作品だったと言えるのではないだろうか。
