”百聞は一見に如かず”
これは旅中、痛感したことの一つでもある。
私たちは、日本時間の3/11はアルゼンチンにいた。
だから、あの故郷を襲った地震を体験はしていない。
それをどうしてもラッキーだとは思えず、悶々としたこともあった。
余談だけど、旅中、アメリカ人に「あなたたちはラッキーだったわ。」と言われたことがあったが、
そこで価値観の違いを恐ろしく感じたのだった。
恐らく、あの揺れを体感した人は、
あの恐怖と不自由さしかない生活を体験した人は、
一生忘れることはできないだろう。
その経験が私たちにはない。
復興には長い時間がかかる。
頭では分かっているけれど、恐れていることがある。
「いつか忘れてしまうのではないか。」
それも、そう遠くないうちに。
現実に、花巻では普段通りの生活が出来ていて、
店先の「頑張ろう、岩手」という文字が、
時に、現実感を伴わないように見えることすらある。
でも、人の心の中にはまだまだあの時の恐怖や不安、憤りが巣食っていて。
復興への想いを忘れないためにも、
体に刻む必要がある、そう思った。
今まで、メディアや個人の発信する情報でしか知りえなかった。
自分の目で、自分の体で感じたい。
3ヶ月も経ってしまったけれど、
花巻市の社会福祉協議会主催のボランティアに参加させてもらい、
昨日やっと被災地を訪れることが出来た。
場所は釜石市。
花巻から車で二時間程の距離。
車窓から見える景色は美しかった。
まだ朝もやがかかる山々。
田植えが終わった段々畑。
青々とした緑。
地震があったことが嘘のような景色。
しかしながら、道路の段差による衝撃で現実に引き戻されるのだった。
ボランティアセンターのある釜石駅付近までは、
至って普段通りの街並みが続く。
プレハブ小屋でできたボランティアセンターに到着後、
当日の作業内容を確認し、必要な資材を車に積み、現地へ向う。
すると、突然街の様相が変わる。
道路こそ、問題なく走行できるよう、瓦礫が撤去されているが、
道路脇は瓦礫の山。
津波被害にあった民家もそのまんま。
現実とは思えない街並みが、現実のものとして、あった。
ニュースで見ていたとはいえ、初めて自分の目で見るこの光景は、
すさまじかった。
地震が起きてから、何とか「希望」を見つけようって思っていたのだけど、
正直な気持ちを言うと、
この光景を前に、希望を見つけるのは難しいのではないかと思ってしまったくらいだ。
3ヶ月経っているのだ。
だけど、3ヶ月経っているのに?とも思ってしまう。
午前中の作業は、個人宅の床下のヘドロ出し。
足場が狭く(床板がはがれていて、格子状の木の枠組みしかない)、
またヘドロも重く、想像以上にキツかった。
ご家族立会のもと、作業をしたのだけど、
ここのご主人が、すごかった。
魚屋を営み、海の近くに冷蔵庫を保有していたため、
海のすぐ近くで地震にあっている。
建物の3階まで上がっても、胸下まで津波が来るという壮絶な体験をしている。
それでも、言葉に絶望は感じられなかった。
全然感じられなかったと言えば嘘になるが。
明るい口調の中に、実際こんな言葉も出てきた。
「(人生)75年の集大成がこれだよ」
「死んだほうがましだった」
冗談のように話していたけど、きっと本音のところもあるんだろう。
それでも、終始笑顔でジョークを飛ばし、
人一倍大きな掛け声で作業を盛り上げてくれる。
さらには、缶コーヒーまで振舞ってくれて。
最後には深々と頭を下げて、お礼を言ってくださって。
「釜石に来た時には寄ってってね。」って。
ほら、家も会社も再建した時のことをイメージしてる。
あー、そうか。
唯一の希望は人なんだ。
何だかこちらが、希望をもらった。
だけど、彼らが乗り越えてきた3ヶ月を、
見せない悲しみや苦悩、絶望を、汲むことを決して忘れない。
瓦礫の山を見て、「3ヶ月経ってもこれか。」と思うこともあるけれど、
確実に進んでいるんだ。
今の段階で、遺体を目にすることはなかったし、
道路だって、通れるようになっている。
津波被害に遭った建物や車には、赤いスプレーで、〇や×などのマークが書かれている。
遺体が発見・収容された印らしい。
民家はもちろん、商店街の銀行や商店にも印がついている。
あまりにも多い。
同時に、日付と「USA」や「UK」の文字も。
アメリカやイギリスの救援隊が、捜索してくれた証。
もちろん、日本の自衛隊も、警察も、企業も、一般の人も、日本全国から集まっていた。
愛媛ナンバーや北九州ナンバーの災害支援車もあった。
様々な車両が通る道路脇には、
「支援ありがとうございます」という看板メッセージを何個も見かけ、
この間の岩手の新聞には、
毎朝、自衛隊へ感謝と激励のメッセージを送っている姉妹が載っていたっけ。
最後に、釜石のボランティアセンターに貼ってあったのがこれ。

ヘルメットにも、
「負げねっすよ、釜石」
「頑張ろう」よりも、一番ひびいたキャッチだった。
「負げねぞ、日本」
「負げねぞ、自分」
【おまけ】
ボランティアは自分で必要な物は自分で準備していくのが鉄則だと思っていたが、
(実際、事前に準備してくるように言われた)
釜石のボランティアセンターは用具の貸し出し、配布態勢が整っていた。
水やスポーツドリンク、帽子、軍手、長靴なんてのも。
過保護じゃないか?とびっくりしたけれど、遠方から来てくれる人だっている。
釜石の人たちが少しでも苦労なく、作業が出来るようにと考えてくれた温かい配慮なのだろう。

久々にブログ書いた~。
また、ちょこちょこ書いて行きます。
これは旅中、痛感したことの一つでもある。
私たちは、日本時間の3/11はアルゼンチンにいた。
だから、あの故郷を襲った地震を体験はしていない。
それをどうしてもラッキーだとは思えず、悶々としたこともあった。
余談だけど、旅中、アメリカ人に「あなたたちはラッキーだったわ。」と言われたことがあったが、
そこで価値観の違いを恐ろしく感じたのだった。
恐らく、あの揺れを体感した人は、
あの恐怖と不自由さしかない生活を体験した人は、
一生忘れることはできないだろう。
その経験が私たちにはない。
復興には長い時間がかかる。
頭では分かっているけれど、恐れていることがある。
「いつか忘れてしまうのではないか。」
それも、そう遠くないうちに。
現実に、花巻では普段通りの生活が出来ていて、
店先の「頑張ろう、岩手」という文字が、
時に、現実感を伴わないように見えることすらある。
でも、人の心の中にはまだまだあの時の恐怖や不安、憤りが巣食っていて。
復興への想いを忘れないためにも、
体に刻む必要がある、そう思った。
今まで、メディアや個人の発信する情報でしか知りえなかった。
自分の目で、自分の体で感じたい。
3ヶ月も経ってしまったけれど、
花巻市の社会福祉協議会主催のボランティアに参加させてもらい、
昨日やっと被災地を訪れることが出来た。
場所は釜石市。
花巻から車で二時間程の距離。
車窓から見える景色は美しかった。
まだ朝もやがかかる山々。
田植えが終わった段々畑。
青々とした緑。
地震があったことが嘘のような景色。
しかしながら、道路の段差による衝撃で現実に引き戻されるのだった。
ボランティアセンターのある釜石駅付近までは、
至って普段通りの街並みが続く。
プレハブ小屋でできたボランティアセンターに到着後、
当日の作業内容を確認し、必要な資材を車に積み、現地へ向う。
すると、突然街の様相が変わる。
道路こそ、問題なく走行できるよう、瓦礫が撤去されているが、
道路脇は瓦礫の山。
津波被害にあった民家もそのまんま。
現実とは思えない街並みが、現実のものとして、あった。
ニュースで見ていたとはいえ、初めて自分の目で見るこの光景は、
すさまじかった。
地震が起きてから、何とか「希望」を見つけようって思っていたのだけど、
正直な気持ちを言うと、
この光景を前に、希望を見つけるのは難しいのではないかと思ってしまったくらいだ。
3ヶ月経っているのだ。
だけど、3ヶ月経っているのに?とも思ってしまう。
午前中の作業は、個人宅の床下のヘドロ出し。
足場が狭く(床板がはがれていて、格子状の木の枠組みしかない)、
またヘドロも重く、想像以上にキツかった。
ご家族立会のもと、作業をしたのだけど、
ここのご主人が、すごかった。
魚屋を営み、海の近くに冷蔵庫を保有していたため、
海のすぐ近くで地震にあっている。
建物の3階まで上がっても、胸下まで津波が来るという壮絶な体験をしている。
それでも、言葉に絶望は感じられなかった。
全然感じられなかったと言えば嘘になるが。
明るい口調の中に、実際こんな言葉も出てきた。
「(人生)75年の集大成がこれだよ」
「死んだほうがましだった」
冗談のように話していたけど、きっと本音のところもあるんだろう。
それでも、終始笑顔でジョークを飛ばし、
人一倍大きな掛け声で作業を盛り上げてくれる。
さらには、缶コーヒーまで振舞ってくれて。
最後には深々と頭を下げて、お礼を言ってくださって。
「釜石に来た時には寄ってってね。」って。
ほら、家も会社も再建した時のことをイメージしてる。
あー、そうか。
唯一の希望は人なんだ。
何だかこちらが、希望をもらった。
だけど、彼らが乗り越えてきた3ヶ月を、
見せない悲しみや苦悩、絶望を、汲むことを決して忘れない。
瓦礫の山を見て、「3ヶ月経ってもこれか。」と思うこともあるけれど、
確実に進んでいるんだ。
今の段階で、遺体を目にすることはなかったし、
道路だって、通れるようになっている。
津波被害に遭った建物や車には、赤いスプレーで、〇や×などのマークが書かれている。
遺体が発見・収容された印らしい。
民家はもちろん、商店街の銀行や商店にも印がついている。
あまりにも多い。
同時に、日付と「USA」や「UK」の文字も。
アメリカやイギリスの救援隊が、捜索してくれた証。
もちろん、日本の自衛隊も、警察も、企業も、一般の人も、日本全国から集まっていた。
愛媛ナンバーや北九州ナンバーの災害支援車もあった。
様々な車両が通る道路脇には、
「支援ありがとうございます」という看板メッセージを何個も見かけ、
この間の岩手の新聞には、
毎朝、自衛隊へ感謝と激励のメッセージを送っている姉妹が載っていたっけ。
最後に、釜石のボランティアセンターに貼ってあったのがこれ。

ヘルメットにも、
「負げねっすよ、釜石」
「頑張ろう」よりも、一番ひびいたキャッチだった。
「負げねぞ、日本」
「負げねぞ、自分」
【おまけ】
ボランティアは自分で必要な物は自分で準備していくのが鉄則だと思っていたが、
(実際、事前に準備してくるように言われた)
釜石のボランティアセンターは用具の貸し出し、配布態勢が整っていた。
水やスポーツドリンク、帽子、軍手、長靴なんてのも。
過保護じゃないか?とびっくりしたけれど、遠方から来てくれる人だっている。
釜石の人たちが少しでも苦労なく、作業が出来るようにと考えてくれた温かい配慮なのだろう。

久々にブログ書いた~。
また、ちょこちょこ書いて行きます。