『ユーラシアの中の「天平」』3 | Hiroshiのブログ

Hiroshiのブログ

今後不定期投稿となります

本日は予定が入っているので休日ver.



<火野正平氏死去>

今頃になって火野正平さんが亡くなっていた事を知る。驚いた、自転車で最近まで日本中を走り回っていたから。ほぼ同じ世代。



歳とると、何か起こるとアット言う間に悪化するみたい。





<スマホ相談窓口はまだ?>

予算は決まったので、今年度中にできるはずなのだが、まだ音沙汰が無いキョロキョロ


 

先日、以前のスマホ学習会のメンバーから問い合わせが来たガーンえーん





『ユーラシアの中の「天平」』3

チベットで吐蕃が7世紀半ばに急速に勢力を伸ばしたらしい。それで東アジアから手を引き、唐は新羅の半島統一を黙認した? 更にこれは白村江で大敗した倭国の運命は変わっていたかもしれないと著者は言う。p98

 

結局、吐蕃と唐との関係は710年に金城公主の吐蕃入りで一旦、解決したかに思えたが、さらなるこう着状態に入ったとも。p100

 

とにかく7〜8世紀の日本は東アジアの情勢と無関係ではなかったということだが、それは当然といえば当然。そしてそれは今も同じ。

 

一方、ユーラシア大陸の西ではイスラムの興亡がある。732年のトゥール・ポアチエの戦いで、ここでイスラムの進撃を止めたことが後のヨーロッパの運目を変えたと高校世界史では習った記憶があるが、最近の説ではあくまでイスラムの辺域で起こった出来事との理解が主流だと。p111

 

これについては、その後の私のロマネスク時代の学習でもそのように学んでいる。

 

遣唐使の数は500〜600人で4隻くらいの船に分乗したという。大使と副使、それぞれ1名のほか、事務官、留学者。それに技官や船員。p121 


副使は大使が何らかの事情で任務を果たせない場合の代行をするので独立の地位。 その他、判官、録事は4名ずつで4隻に分乗する。これは遭難を考慮してのもの。p122

 

都から太宰府まで1週間程度。太宰府で風待ちを3〜4月ほど見て、風が吹けば10日で大陸に到着する手はず。p123 


別の本に遣唐使の船は通常よりも権威を示すため大型で、そのために却って遭難することもあったとか書かれていた。


大使や事務官は勿論、都に行くが、留学者や一部の事務官は蘇州で文物や書籍の入手に尽力した。また船員などは船の修繕などに取り組んだ。p132