<日曜討論>
今まで散々議論されたことなので、何も新しいことはなかったが、最新のデーターだけ改めて探し出しておく。
https://www.nistep.go.jp/sti_indicator/2017/RM261_11.html
このことは10年以上前から言われたこと。人口当たりの論文数は日本は今や下位で世界37位。
https://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/2b1307b461f2ed4d9c5bb8d13e31ae89
主要論文数に至っては1980年代レベルに戻った。ピークは2000年代、その後急落した。一方中国は急激に上昇し、世界シェアーの20%程度まで上がっている(日本は6%程度)これは国の経済状況とも関係するだろうが、それだけではない。
https://spc.jst.go.jp/data/techoverview2016/1/1_34.html
就職先がないのに博士課程に行く学生が少ないのは当然。ポスト・ドク1万人計画=非正規のドクター研究者を倍増させた無能な文教政策がケチの付け始め。研究者を「カスミを食う仙人」だとでも思っていたのか?!今、定職がないまま30代後半から40代にもなった研究者を沢山周囲に見てきた。ライフワークを追求しなければならないはずの若手が教授の手伝い! また段々腹が立つてきたのでここで止めよう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/dandoyasuharu/20150517-00045797/
<活断層図>
福岡で地震があって以来、正確な活断層図を探していたが。ついに見つかる!しかし何故、普通の検索ではヒットしないのだろう? 検索の仕方が悪い? いや、大人の事情で公にされていないのでは?と疑いまで持ちたくなるほど。それを示唆する事も本の中には書かれている。
極めて詳細な活断層図で、1軒レベルまで正確に地図上に表示されている! それによれば宇美断層(想定のレベル、断定された場合は実線で表示)から直線距離にして1600mの位置に自宅がある。また太宰府断層なるものの存在も知る。先日の水城跡の展示館 [地図上にある(特)の下の黒いボックスが展示館] の真下!に活断層(確定=実線)が通っている。
https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/active_fault.html
今日は太宰府図書館に貸し出し延長手続きが必要だったのでついでに現地に足を運んでみたが、ここらは昔から都市化が進んでいるので、とても元の地表現状を示しているようには見えない。しかし、上記の地図によれば自宅近くの新興団地のそばに宇美断層が走っているので、ここなら地表の状態を残している可能性が高い。ちなみにこの団地の西北側、活断層に沿って団地の境となっている。なんとなく団地の境界と活断層の走りには関連がありそうな雰囲気。後日、現地調査してみたい。
『琉球王国』4
4章以降は幕藩体制に組み込まれる琉球の歴史を描く。1609年の薩摩島津藩の琉球侵攻が契機だが、それ以降琉球の日本化が進んだわけではなく、むしろ逆に中国化が進んだというのは興味深い。どうやらこれは幕府、島津、琉球そして形式さえ整っていれば南蛮としての琉球には無頓着だった明朝、そしてその後の清朝の思惑が合ったということのようだ。
実際、何度かジャザサイズのイベントや後には仕事上というか、学生のリクルート目的の高校訪問で何度か沖縄本島を訪れたことがあるが。本土とは異なる風土というか文化(=中国風)を感じていたので成る程と思ったが、同時にこれが島津による琉球侵攻の後で起こったということに驚きもした。
冒頭、島津はこの占領後、喜界島~与論島までの5つの島を「道の島五島」として薩摩藩に組み入れたらしい。p96 実際、確認すると確かに現在鹿児島県に与論島まで含まれている。恥ずかしながら、こうした基礎的事実すら知らない。さて、問題は琉球だが、この地を「此他(このほか)」という特殊な地位で、知行体系には組入れるが軍役を課さない。つまり島津藩の属領として扱ったということらしい。p98 さしずめ税金は取るが、他国という扱いだろうか?
むしろ鎖国体制の中にあっての例外的接点として、「長崎口」「松前口」「対馬口」そしてこの「薩摩口」としての位置付けが重要だった。p101 この4つの口はそれぞれ中国、アイヌと黒龍江下流の山丹、朝鮮そしてもう1つの中国への玄関となった。ここで中国に対し長崎口と役目を分け合うことがいろいろ後から問題を引き起こすことにもある。機能としては貿易と海防を担うことになる。貿易については長崎口とともに主要な輸入品は生糸と絹織物、薬草。p102
そうした幕藩支配に対し、琉球は幕府が中国に対し儀礼的冊封体制にいることを黙認したこともあり自発的に中国化を図り幕藩を牽制しようとしたらしい。115 それゆえ、「江戸上り」と呼ばれる外交イベントでは衣服や風貌(中国風の髭)でわざわざ異国風を装うようにもなったとか。面白いのは主要な町や城下町に差し掛かるとわざわざ唐衣装に着替えて唐風の路次楽(ろじがく)を鳴らしたとか。p116 またこうしたデモンストレーションは幕府にとっても威信を増すことで好まれたとも。
さらに面白ことに先日火災で消失した首里城だが、これはグスク時代のものではなく中国化がまさに推進されていた18世紀中頃の設計で外見は和風だがその構成は紫禁城の配置に似ているとか。知らなかった。確かに以前首里城に行った時も和風の構造とは異なるものを感じていた。