先週、10月4日と5日に佐賀県で開催された日弁連人権擁護大会に参加した。佐賀県は私が約10年前の司法修習生時代に1年間住んでいた場所であり、とても懐かしかった。

 人権大会では、毎年いくつかテーマを決めて分科会が開催されるが、私は「強いられた死のない社会をめざして~「自殺」をなくすために私たちができること」という分科会に参加した。

 我が国では、1998年以来、毎年3万人以上の自殺者が出ているとのことで、自殺の社会的要因としては、貧困と格差の拡大や精神疾患の増大などがあげられている。

 確かに、長引く不況で、先の見えない不安感などが自殺の大きな社会的要因にはなっているのだろう。しかし、自殺の原因を不況のみに求めてしまうと、それでは景気が回復してかつてのような右肩上がりの経済成長を実現するしか手立てはないということになってしまいそうだ。だが、この先そのような右肩上がりの経済成長などあり得ないであろうし、また万が一あり得るとしても、それが良いこととは思えない。

 1998年といえば、パソコンや携帯電話、インターネットなどが一般に普及し、職場でも当たり前に使われ始めた時期と重なるように思う。その時期から自殺者が以上に増え始めたことは単なる偶然ではないのではないか。

 携帯やネットを仕事で使えば、確かに便利である。私なども外で仕事をしていることが多いので、事務所にいないときでも携帯やメールがあれば依頼者や事務所と簡単に連絡を取ることができる。しかし、便利さとともに、私たちは確実に忙しくなった。弁護士同士のメーリングリストなどを見ていると、夜中の2時、3時に投稿している人などざらにいる。今日も仕事である不動産業者の携帯電話に連絡を入れたのだが、何とその会社は本日休日であった。恐縮して謝ったのだが、その業者は、どうせ休日もいつも仕事をしていますのでまったく問題ありませんという対応であった。おかげでこちらは助かったが、どうも後ろめたい気分になった。

 携帯やネットの登場で、私たちは便利にはなったが、その反面、確実に忙しく、またスピーディーな社会になった。そして、その速いペースを勝手に変えたり、降りたりすることは許されない。弁護士も携帯電話番号を公開するのが当たり前になりつつあるし、携帯番号を名刺に書かないと非難されることもある(私は事情があって携帯番号を名刺に書かないが)。メールをすぐに返さないと怒る人がいる、土日や夜間でも対応してくれるのが当たり前と思っている人がいる。たとえば、あなたの職場でこういうことは許されるだろうか。私はポリシーで、携帯電話は持ちません、パソコンやメールも一切使いませんと。

 携帯やネットのおかげで、私たちはかつて8時間かかっていた仕事が2時間、3時間で片付けられるようになった。しかし、私たちはその余った時間を自由に使うことは許されない。すれはすぐに、2、3時間で片付けるのが当たり前の仕事になる。いつの間にか私たちは、便利さの陰でこうしたスピーディー社会の渦に巻きこまれてしまっている。

 こうなると、技術革新や文明の発達は何のためにあるのかという根本的な問いにぶつかってしまう。私たちを幸せにするための技術革新が逆に私たちを追い詰めるツールになってしまっているのだから。

 自殺問題の背景には、こうしたことがあるのだと自覚することも必要だろう。やはり私たちは、飽くなき経済成長の追及や、スピードばかりを重視する過酷な競争社会をそろそろ見直すべきではないだろうか。