最近、我が業界でも、「お客様」とか「サービス」といった言葉を多用する法律事務所や弁護士が増えてきた。近年の司法制度改革の影響もあり、長年「殿様商売」とか、「態度が偉そうで顧客サービスがなっていない」などと批判されてきた我が業界で、「改革」をイメージするのに便利な言葉なのかも知れない。

 確かに、我が業界をサービス業と見た場合、まだまだサービスの質が十分であるとは言えないだろう。時間を守らない弁護士、依頼者の話を聞いてくれない弁護士、高い金を取ってほとんど仕事をしない弁護士など、常識的に見て非難されるべき弁護士を私も見聞きしてきた(自壊を込めている部分もあるが)。私も、こうした業界の状況を改善し、市民や依頼者のために業界全体のサービスの質を向上させる必要があることについては異論はない。

 それでも、「お客様」とか「サービス」といった言葉にはどうしても抵抗を感じてしまう。断っておくが、私は弁護士が「お客様」や「サービス」という言葉を使うのは弁護士の品位を汚すとか、「弁護士は商売人ではない」といった上から目線の感情から抵抗を感じているのではない。

 それは、こうした一見するとまともそうに見える言葉が、過剰な大量生産、大量消費社会や、過剰なサービス社会、飽くなき経済成長を追い求める新自由主義経済を連想させてしまうからだ。

 思えば、一般の社会で「お客様」とか「サービス」といった言葉が多用され始めたのはいつ頃からであろうか。それは、地域の商店街を破壊し尽くした大規模スーパーや大手外食チェーンなどが出現し始めた1990年代あたりからであったように思う。それ以前の時代には、地域の人々を対象にした町の商店街などでは、八百屋や魚屋のおじさんが、「奥さん、安いよ!」とか「お客さん、ちょっと寄って行きなよ」などと話しかける姿は多くみられたが、「お客様」とか「サービス」などという言葉はほとんどなかったと思う。

 いつの間にかそうなってしまったが、今の過剰な大量生産、大量消費、過剰なサービス社会ははっきり言って異常だ。企業はより安く、より質の高いサービスを追い求めて飽くなき競争を続け、経営の効率性を追求して大規模化する。便利さや過剰なサービスに慣れた消費者はより便利さ、快適さ、安さを求め、企業はそれに応じて終わりなき低価格競争の泥沼にはまっている。

 しかし、そうした社会の陰で一体何が起きているのか。某大手コンビニチェーンでは、国内で1日に約1億円分の食料を廃棄しているという。食料の飽くなき大量生産・大量消費社会のために、地球の裏側では飢餓問題が起こり、遺伝子組換え食品や化学調味料の多様など、食の安全そのものを脅かしている。また、昨年3月11日に起こった福島原発事故は、電気が決して安価で安全にいくらでも手に入れられるものではないことを私たちに教えてくれた。その他にも、地球温暖化やエネルギー資源の枯渇の問題も深刻である。

 また、こうした過剰なサービスの担い手である労働者の長時間労働、過労死や過労自殺の問題も後を絶たない。低賃金で「お客様」に対する過剰な「サービス」を強いられ、長時間労働で生活設計も立たず、その結果心身に不調を来す例も少なくない。我が国の自殺者はこの10年間連続で年間3万人を超えている。

 つまり、現在の安価で便利な大量生産、大量消費社会、過剰なサービス社会は実は目に見えない様々な犠牲のもとに成り立っているのだ。

 一体、私たちはいつまで過酷で過剰な競争をしなければならないのだろうか。飽くなき経済成長の先には、確実に地球環境の破壊や資源の枯渇、食糧難などが待っているというのに。私たちはそろそろ、経済成長に依存しない、人も環境も持続可能な社会の構築を真剣に考えなければならないときに来ているのではないか。

 もちろん、心からお客を大切に思う意味で「お客様」や「サービス」という言葉を使うのは必ずしも否定しない。しかし、現在社会一般で多用されている「お客様」「サービス」という言葉は企業間の競争とセットで使われる場合がほとんどであり、どうしても大量生産・大量消費社会、過剰なサービス社会を連想させてしまうのだ。私の考えすぎだろうか。

 こうしたわけで、私は、我が業界で弁護士の役割や市民に対するサービスの質の向上を真剣に考えている先進的な弁護士(もちろん嫌みではなく、私はこうした弁護士を心から尊敬している)からは訝しがられながらも、できるだけ「お客様」とか「サービス」という言葉は使わないようにしている。

 このような私は、もはや古いタイプの弁護士なのだろうか。