先日、2回目の月命日を迎えた


夕飯は息子の大好きだったカレーにしようと思う

と、母に話したら

「作ってあげるから子ども達連れておいで」と

今回の月命日はジジババ宅で迎えることになった


仕事が終わり帰宅し

骨壺とお線香セット、位牌や写真を荷物にまとめた 


実家に向かうと親戚みんなが集まるという

え、そうなの?と

私も聞いていなくて動揺

「呼んだわけじゃないよ、来たいっていうから」


静かに過ごそうと思っていた矢先

総勢15名程の会になることに

心揺さぶられた私


あ、これは涙の予感

そう考えただけでこみ上げてくる


最近は

キラキラ家族だけで過ごす

キラキラ自宅で何気ない日常を過ごす

この方法が穏やかでいられる方法だと気づき始めた

抱っこしたり話しかけたりご飯の準備したり

見えないだけで「そこにいる」

家族全員がそういう感覚になるため

「死」を意識しなくて済む


普段私は滅多にお線香はあげないし

手も合わせない

そういうお作法をすると

息子を死者として扱う感覚があるから…

そう、これも現実逃避かな

息子は私の中では生きているのです

そういうお作法が受け入れられないのです…


息子は家族葬でお坊さんは呼ばなかった

お墓はない、入れる予定もない

だから四十九日もないし

お彼岸もお盆も特別意識しない

自分で食べたり歩いたりすることができないから

お空には一人じゃ行けない

食べさせ慣れた人が上手に介助しないと

ムセちゃうんだ

私がそばにいなきゃ困っちゃうんだ

ずっとこの家にいて家族と一緒にいて

一緒に年を重ねていく

私が死んだら同じ骨壺に混ぜてほしいと

子ども達が大人になったら伝えたい

私が抱っこするか車椅子押して

一緒にお空に行こうかなと思ってる

夫も両家祖父母もこの気持ちを分かってくれて

本当にありがたい


…と、まぁ私の息子への思いはこうなんですが


家族以外の方はまた別な話で

お線香を上げたい

手を合わせたい、といってくれる方がいるので

その方達のためにお線香セット、準備してます


結局、親戚みんながお線香を上げてくれて

その「死」へのお作法を見てまた泣く自分

あぁ、だから辛いのよね



自宅にいれば話しかけ放題、抱っこし放題

この前夫なんて高い高いしてましたからね

私、こっそり見ちゃいました笑

あの子がキャッキャと喜んでた高い高い

夫もきっと私と同じ感覚なんだろうな



でも結局大勢集まったおかげで

何気ない話して

笑ったりできて

子ども達はいとことドタバタ遊んで

これもまたいいのかな

みんなで前に進む作業を積み重ねていく

受け入れられなくてもそれでいいみたい



息子にお供えしたカレーに

食いしん坊のお兄ちゃんが食べ足りなくて一言

「〇〇のカレー、食べていい?」


それはやめといてあげて笑