「これでよしっと」
ジヨンは帰宅後、早々に晩御飯の準備をした。今日のメニューは麦ご飯にトッカルビ、海藻サラダに豆腐とわかめの味噌汁だ。味噌汁はスンリから日本の料理だと教えてもらい、ジヨンも好きになった。ご近所の日本人女性と仲良くなり、時々日本の食糧を分けてもらうのだが、味噌汁に使うのは彼女のお手製味噌だ。
先に麦ご飯と味噌汁、サラダをこしらえ、トッカルビはスンリが帰って来てから焼く。
出来立ての方がおいしいはずだ。
ジヨンは壁の時計を見た。スンリとヨンシクが『étoile』を後にしてからもう1時間半ほど経過していた。
あの後どうなったのか分からない。邪魔になるかと思い、電話もメールも控えた。どちらにしてもバスの発車時間はとうに過ぎているし、ターミナルまで見送ったのであればそろそろ帰る頃だろう。
ガチャッ
玄関を開ける音がして、予想通りスンリが帰って来たのだと分かった。愛する人の姿を思い浮かべながら出迎えに行き、ジヨンはキョトンとした。というのも、そこにはスンリではなく、ヨンシクがいたのである。
「…ただいまぁ」
その後ろから、申し訳なさそうにスンリが顔を覗かせる。ジヨンは状況が飲み込めず何も言えずにいた。
「大邱行きのバス乗り損ねちゃって…今日ここに泊まるらしい」
「あぁ…」
事情は分かったが、言葉が出ない。スンリが同居している自分のことをどう説明してるかが分からないからだ。
「じいちゃん、さっきも言ったけど」
スンリは大きめの声で前置きした。
「こちらはクォン・ジヨンさん。僕の高校の先輩で、今家賃の支払いがキツイから一緒に住んでるんだ」
「いい歳の男が一緒に住むなんぞ…」
「だからそれもさっき言ったでしょ。今は結構多いんだよ、上の階にも大学生3人が同居してるし」
スンリの言ったことは本当で、上階に大学生たちが一緒に住んでいる。他にも母子家庭の世帯だったり、家賃を抑えたい人たちが多いアパートのためスンリとジヨンの同棲生活も特に不審に思われることなく成り立っていた。
だがやはりヨンシクの世代には今時の若者のルームシェアやシェアハウスというのが理解し難いものである。
「クォン・ジヨンです。どうぞ、お上りください」
ジヨンは深々とお辞儀をし、スリッパを差し出した。
「おお、すまんのう」
ヨンシクが礼の言葉を口にしたのでスンリは安心した。スンリに対して怒っていても、その他の人間に対してまで不遜な態度を取ることはないと分かったからだ。一泊とはいえ急に自分の身内を泊めることになりジヨンには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。その上ヨンシクにまできつい態度をとられたらどうしようかと思っていたのだ。
どうやら『étoile』で接客したのが彼であることには気がついていない様子だ。それもそのはず、あの時のヨンシクは店員に目を向ける雰囲気ではなかった。
ヨンシクが先に家に上がると、スンリはジヨンに『ごめん』と囁いた。おそらく帰りが遅くなったのは帰る帰らないの押し問答と、ヨンシクを今日帰らせることを諦めたスンリがジヨンとの同居についての説明をしていたのだろと察した。
「ううん、大丈夫。ご飯は?」
「まだ」
「よかった!」
ジヨンは笑顔になった。
「今日はトッカルビだから、おじいさんも召し上がられるかな?」
「あ、うん…喜ぶと思う」
「よーし、じゃあすぐ焼くから待ってて」
ジヨンはスリッパをパタパタと音をさせてヨンシクの後を追った。その後ろ姿を眺めながら、スンリは彼を愛おしく感じた。急に予定がキャンセルになっても、祖父を泊めると言っても、怒らないでいてくれる。本当は謝りたい気持ちでいっぱいだったが、実際のところジヨンは少しも怒ってなどいなかった。
むしろ1人でヨンシクからの説教を受け続けるスンリに申し訳なさを感じていたし、自分が少しでも緩衝材になればと思った。
ジヨンはすかさず座布団を用意し、ヨンシクはリビングの床に置かれた小さなテーブルの前に腰をかけた。
「ありがとう」
店を出た後にしばらく立ち話をしていたのもあり、ヨンシクは疲れていた。
「すぐお茶をお持ちします。お夕飯もそろそろ支度が整いますので少し待ってくださいね」
「君が作るのか?」
「あ、はい」
「なんじゃ、男が台所になんぞ…」
「じいちゃん!」
説教がはじまりそうになるのをスンリが制止した。時代は変わったというものの、ヨンシクは男性が台所に立つのを未だに見たことがなかった。2人の娘は結婚しているが、家族でヨンシクを訪ねて来た時も、その夫たちが料理をしたこともなかった。最も、ヨンシクの性格を知っている彼女たちが手伝わせなかったのもある。
「では、すぐご用意しますね」
ジヨンは微笑んでキッチンに向かった。
その様子を見てヨンシクがスンリに囁く。
「なんじゃあの子は。スンリ、家のこと全くせんのか?」
「いや、ちょっとまぁその…」
スンリは仕事が忙しく、実際家事はジヨンに任せきりである。その分家賃など生活費の負担はしているが、それを言ってしまうとルームシェアという対等な立場であることの説明がつかなくなる。
「じいちゃん、足揉もうか?疲れたんじゃない?」
「ほうか?少し頼む」
対して追求されることもなく話を逸らすことができたので、スンリは安心した。それに、時間が経ってヨンシクの気持ちも少し治ったようである。
スンリはヨンシクの足を取り、優しくマッサージした。そんなに背は高い方ではないが、ひさしぶりに再会したヨンシクはさらに歳を取っており、ひとまわりも小さく感じた。
家に泊まると言い出した時はヒヤヒヤしたが、ヨンシクが病気であることと手術をすることは事実なのである。スンリは丁寧に丁寧にマッサージを繰り返しながら、ヒョンスクの"祖父孝行"という言葉を思い出していた。