一昨日は大雨だった。

 

そのせいだったのかな、「火曜日に行きます」と言っていたリフォーム工事の現場責任者は来なかった。

 

まあ、「雨では取り掛かれない」っていう種類の工事もありますよね。特に今回のリフォームは内部は殆どなく、外部工事ばかりのようなものですからね。

 

貰っている工事の予定表もかなりアバウトですしね、元々。

 

さて、そんなわけで「サザエさんの昭和図鑑」の中からの話題。ぱっと本を広げたら、

「空き地」↑ だった。

 

いやぁ、この写真の左端に写っている少年、坊やって自分じゃないか? 

 

と思えるぐらいに自分の昭和時代そのものですわ。

 

空き地=土管

 

と言い表せるような場所が、自分の小学生時代には比較的近所にあった。

 

いや、当時の感覚では「近所」とは言えない。

 

子どもの足で10分~15分はかかるぐらいの「割と遠くの」場所だった。

 

この写真のように、中に入って遊べるほどの大きなものと、それよりは小さな土管が雑然といっぱい置かれていた。

 

あれは何して遊んだのだろう?

 

鬼ごっこだった?

 

いやチャンバラごっこだった?

 

中に座って本を読んだ?(←本といってもマンガに違いないが)

 

あるいは土管を家に見立てた「おままごと」のようなものだったか?

 

遊びの種類まではきっちりとは覚えていないが、雑草の生い茂った(と言っても広さはそんなには無かったはずなのだが)空き地の道を隔てた向こう側に、

 

その「土管の空き地」はあった。

 

そこで遊んでいても誰かに怒られるということはなかった。

 

思うままに、勝手に遊んでいたと思う。

 

あれ、本当は空き地の(つまりは土管の置かれている場所の)入り口辺りには、「立ち入り禁止」とか「危ないので遊んではいけません」の看板は立てかけられていた(ような気もする)。

 

でもね、我々「昭和っ子」には、そんなものはヘッチャラだった。

 

今の子たちには「空き地で遊ぶ」「土管で遊ぶ」ということは稀有なことになっているのではないかなあ。

 

特に都会ではね。

 

さて一方、何も置かれていない「原っぱ」も、結局あれは空き地だったのだろう。

 

冬になると草は枯れて、地を這うように茶色の枯草が地面を覆っていた。

 

「やってはいけない」と誰もが言われていた「火遊び」を(我々悪ガキたちは)そこでするのだった。

 

枯草に火を点けて、それが横へ横へと広がるのを眺めていた。

 

ただ眺めるだけの「火遊び」なのだが、一気に燃え広がるということはなく、じわりじわりと燃えた面積が広がっていくのだった。

 

何人かでそれを眺めていた。

 

「やってはいけないのに」という気分は誰にも残っていて、狭い「燃えている部分」を取り囲むようにして眺めているのだった。

 

だから、それほど長い間燃やし続けるということもなかった。

 

「火遊び」を遊びの終わりにすることが多く、割とすぐにみんなで踏みつけて火を消すのだった。

 

念入りに消した。

 

残り火は危ない、と子ども心にも染みついていたのだろう。

 

消し終わると、そろそろ日が傾いて薄暗くなりそうな時刻に、それぞれは己の小さな家に帰るのだった。

 

その日も何事も新しいことは起こらず、それでも不満に感ずるようなこともなく、

 

やがて襲って来る「受験」「競争」という将来の言葉の意味も知らず、昭和っ子たちは一円玉のような満たされた思いで、

 

帰っていくのだった。