「変わろう!」とはっきりと思った覚えはないのですが、心からそう思ったのだと思います。
それまで「変わりたい」だったのが動き出してしまった感じだ。
動き出してしまったのです。ネジをめいっぱい回していたゼンマイ仕掛けのおもちゃの車が一気に動き出したように。
それまでぼんやりと頭に浮かんでいたやってみたいことを一気に始めたような気がする。
恋もしたいと思っていたので、おそらくそんな顔をしていたと思う(笑)この話はまた今度。
2019年にダイエットが成功してからコロナ渦に入っていったが、なんとかリバウンドは防いでいた、それでも食への執着も凄かったので、普段の摂生が暴飲暴食につながり、これはこれで大変だったが、今は乗り越えた。この話をもまたの機会に。
どんな順番かは忘れたが、思い浮かんだことはとにかく始めてみた。油絵教室もいった。昔は絵を書くの好きだった、漠然とした憧れだけがあったから道具などは買ってみたり、本を買ってみたりしたけど、自力で夢中になることはなかった。
教室を見つけて通ってみた、けど、結果は楽しくなかった。教室で課題を書かされた、これが眠くてしょうがなかった(笑)教室の空気感も無理だった、数回で止めたと思う。
それから発声が大事だと聞くと、歌の教室にも通った。これも数回で終わった。
字が猛烈に汚いのでペン習字にも通ったが、無理だった。通っている生徒さんたちとも全く馴染めなかった。
この頃はまだまだおかしい精神状態だったと思う。
あと最大の反省であり気づきだったのは「英語」だ。なかなかの金額をかけたがもちろん話すことはできない。かかわり方が全く間違っていたし、おおいに反省する案件だが、英語コンプレックスは減ったと思う。こういうのってで「英語しゃべれる」←スゴイ人、「しゃべれない私」←ダメな人、みたいな、そんな構図を描いているような状態からの「英語がしゃべれるようになろう!」だから当然無理な話だ。今、思うのはコミュニケーション、相手と関わりたい、という気持ちがあって初めて話すことが必要なのか?それは自分が話せるようになる事が必要なのか?それともアプリで良いのか?と考える必要が出てくるのだと思う。去年、広島駅のおみやげコーナーでアメリカ人にナンパされた。何度かやりとりをしていて実際に食事をしたが、ほとんどが片言の単語のやりとりとアプリでその場は楽しめた。が、これってその場にいる自分の気持ちが大切だと思う、アプリではやっぱりもの足りなかったので、それっきりだけど、私がもっと話したい、仲良くなりたいと思えば「アプリ」のサポートを受けて楽しめたかもしれない、私の心のどこかに「英語が話せないことが原因で楽しむことができない」が先行していたのだと思う。これは良くない思考のパターンだと思う。まず、自分の本心を置き去りにしているし、その時間を全力で楽しもうとしていなかった。
これを考えると、手当たりしだいにいろいろと試したが、私の心を置き去りにしていたなと思う。ただ、何もせず動けずにいたら「私には油絵の才能があるかもしれない」「歌がうまくなったら人気者になれるかもしれない」「字が綺麗になったら人としての価値が上がるかもしれない」と考えるだけで何も変わっていなかったと思う。むしろ、どんどん自分を嫌いになっていたと思う。
ずいぶん遠回りをしたし、お金も使いつくしたけど、やっぱり動いてよかったと思っている。