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先ほど見ました、「どうする家康」の第25回「はるかに遠い夢」。1579年(天正7年)、家康は満37歳になる年のお話です。

 

ここからはネタバレになりますので、まだ見ていない方はご注意ください。

番組紹介 | 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<あらすじ>

瀬名の策が露顕し、信長に土下座する家康。信長は「お前の家中で起きたことだ。自分で決めろ」と言い放った。信康と瀬名は2人で責任を負うといったが、家康は「世間も信長も欺く」と言い、身代わりを立てることで2人を逃そうとした。しかし、信康は「母上が逃げてから」と言い張り、瀬名も自害すると決心していた。家康は瀬名に逃げるように説得するも「今が命を懸ける時」と、瀬名の決意は揺るがない。かくして瀬名は湖の畔で自害し、信康もまた自害して果てたのであった。

 

 

・結末の筋書き

個人的に一番気になっていたのが、徳川家全体で瀬名の策に乗ったことについて、どのようにケリをつけるのか、という点です。ただこれは意外とあっさり片付きました。信長の指示は

「お前の家中で起こったことだ。俺は何も指図せん。お前が自分で決めろ。」

と、徳川家全体が信長を裏切ったことに関しては不問に付す、という内容でした。これまでの劇中の信長を基準に考えると、かなりアマイ処分です。「俺に逆らう者は容赦しない」と、敵城に兵糧を入れた咎で水野信元は死に追いやったにも関わらず、織田家に対する明確な裏切り行為にはしった家康の罪は不問に付す、というのは、かなり違和感があります。

もちろん、ここで信長と家康が戦になったりすると架空物語になるので、こうならなければ困るという事情があるのでしょうが、このために物語の筋書きはかなりご都合主義になってしまったと思います。

 

 

・家康は人でなし 武田勝頼のセリフ

事件の顛末を知った武田勝頼は「家康は人でなし」と言い放ちましたが

「お前がバラしたからだよ」

と率直に思いましたね。同じツッコミを入れたくなった視聴者はけっこういるんじゃないか、と思います。

ただ、劇中の勝頼の真の狙いは、

瀬名の策に乗ったフリをして、後でバラシて信長と家康に血みどろの抗争をしてもらう

というものでした。なので、勝頼は

「家康は妻と嫡男を守るために信長と戦うべきなのに、妻と嫡男に責任を負わせて保身にはしった⇒家康は人でなし」

という思考になったのでしょう。なので、劇中の勝頼はブレていません。

 

 

・信康の最期

「母が逃げなければ自分も逃げない。」

そう言い続けた信康は、一見すると「父が温情をかけているのに、自分の希望ばかり言い続けるワガママ息子」にも見えます。

ただ、劇中の信康が考えていたことは「自分を救おうとしてくれた母を犠牲にして、自分だけ生き延びることはできない」という、ことなんじゃないか、と思います。母への義理を通したかったのでしょう。ただ、これだと2人の娘と共に残される五徳がまったく考慮に入っておらず、不憫です。劇中の五徳は、当初は父の威を借るワガママ狐でしたが、後半はすっかり信康の正室として徳川家に寄り添っていただけに、なおさら不憫です。結局、信康にとって五徳は「あの憎たらしい信長の娘」だったのかな、と思いました。

ただ、信康の最期のシーンはよかったと思います。特に平岩親吉がよかったと思います。既に腹を切り、息も絶え絶えになった信康に対して最後まで「若!」と声をかけ、介錯することを拒んでいました。信康幼少の頃から、岡崎城でサポートに当たっていた平岩親吉にとって、信康にはどんな形であれ生き延びてほしかったのでしょう。

 

 

・瀬名の最期

今回の一番の見せ場です。こうなってしまった経緯にはあまり共感できませんでしたが、家康と瀬名の最期の会話はとても感動的で、涙をこらえることができませんでした。いろいろありましたが、劇中の瀬名は家康、そして徳川家全体を支えてきた強くて立派な女性なので、彼女が死ななければならない、というのはあまりに理不尽、あまりに悲しいことです。家康が最後のシーンで倒れたのも、当然ですね。

ところで、瀬名が最後に着ていた着物には、カニが描かれていました。私の記憶では、劇中で瀬名がカニ柄の着物を着ていたシーンはありません。これにはどういう意味を込めたんでしょうね?

カニはハサミで何かを切るから?

カニが切るのは「自分の命」「家康との関係」「この世への未練」?

 

 

 

・築山殿事件の真相は?

さて、ここまで『どうする家康』の感想を書いてきましたが、あらためて築山殿事件の真相について考えてみました。史料に記載れている事柄を改めて考えてみると、けっこうな疑問点が湧いてきます。具体的には、以下のポイントが私の疑問点です。

 

①なぜ、瀬名は夫・家康とともに浜松城に住むのではなく、息子・信康と共に岡崎城にいたのか?別居夫婦でいた理由は何か?

⇒当初は信康がまだ子供だったから、ということで一応の説明にはなりますが、元服以降も母親が一緒にいることの説明にはなりません。単純に、家康が瀬名を遠ざけていた、あるいは瀬名が家康を嫌っていた、のではないか、と考えてしまいます(いわゆる夫婦不仲説)。ただ、この説だと『どうする家康』の根底が覆ってしまうので、当然この説は採用されませんでした。ただ、実際のところはどうだったのでしょう?

 

 

②徳川秀忠の誕生

瀬名と信康が自害する数カ月前に、西郷局(お愛)が徳川秀忠を産んでいました。つまり、あの時点で信康は唯一の嫡男だったわけではない、ということ。劇中ではまったく触れられていませんでしたが、信康=家康の唯一の後継者、と考えていると事実を見誤ってしまうので要注意です。

この件は、悪く取れば「家康にとって、瀬名と信康は今川時代の負の人間関係であり、むしろ築山殿事件は家康が黒幕だった」という家康黒幕説に繋がります。

ただ、個人的には、この説も無理があると思います。当時、乳幼児の死亡率は大名の子といえども決して低くはなかったので、生まれて間もない男子がいることを理由に、信康に後継者としての存在価値がなくなる、というのは早計過ぎます。また、秀忠の母は側室なので、格の面でも劣ってしまいます。

 

 

③信長は信康の切腹を要求したが、築山殿については何も言っていない

通説として『三河物語』の記述が根拠になっていますが、『三河物語』でも、信長が要求したのは信康の切腹だけであり、築山殿については何も言っていないそうです。それではなぜ築山殿も殺害されたのでしょうか?

 

 

築山殿事件、ほんとうに謎が多いです。残念ながら『どうする家康』の瀬名による東日本連合結成説には、説得力がほぼありませんが、今後の研究結果と新説の登場が楽しみです。

 

さて、前半も終わって来週から後半ですね。次回も楽しみにしています。