幸せというものに客観的で明確な基準など、ないと思っています。


例えば自社ビルを運営し数百人の従業員の生活を賄い、ベンツを何台も所有したらそれは無条件で幸せだということなのでしょうか。


幸せには

誰でもがなれると信じています。


自分は常にかつかつの生活で経済的には余裕などありませんでしたが、それでも子供達と楽しく暮らせた日々は間違いなく幸せでした。



しかしその渦中は

「お金さえあれば…」

という思いを抱えながらも子供達を喜ばそうと、とにかく考えて工夫しての生活でもありました。

ひねくれた視点で言えば、ある意味ごまかしの日々でもあったわけです。


面白くさえ生活していれば子供達はおおきな不満を持ちませんが、それは正確に言えば"気付かない"ということなのでやはりごまかしなのでしょう(笑


人生は、時にごまかすことも必要です。


でも、それでも楽しく暮らしているという実感はすごく大事なわけです。


やがて子供達が成長して様々な判断が出来るようになった時に

「ひどい生活だったな…」

そう、気付いても

「でも楽しく暮らせていた」

という記憶さえあれば、成長してきた過程に悲壮感を伴わせずに済むのではないかなと思います。


言わば、親はそのために必死で"ごまかし"を続けているわけですよ。

ごまかしも通せばひとつの道理になるわけです。

ただ、ごまかしだと解ってはいるので成長した子供達に

「ひどい生活だったね」

そう言われたら否定せずに

「そうそう、よくやって来れたよな」

そう言って価値観を共有します。

それで子供達が

「親父、そんな雰囲気は見せなかったのにその自覚はあったんだ」

と思ってくれれば、それでいいと思います。


人生の表と裏と言ってしまうと、あまりいい表現にはなりませんが…

重ねていえば、人生にごまかしは在りです。


父子家庭だった頃は子供達が帰る時間に吾輩はまだ仕事をしていましたから、昼休みに帰って子供達のおやつを用意しておくわけです。

小学生組は帰宅したらすぐに保育園組を迎えに行ってくれますから、おやつぐらい用意しておかなければ申し訳ありませんからね。

しかし、そのおやつは簡単には手に入らないわけです(笑

キッチンに

"おやつは冷蔵庫の中にあるよ"

というメモを置いて、冷蔵庫の中にはまた

"実は押し入れの中にある"

とのメモを残し、最終的に部屋を出て公園まで行って

「おやつは押し入れの下の段の左隅にある」 

というメモを見つけてまたゾロゾロと部屋に戻り、やっと


仕事場で

「そろそろ、やり始めてる頃かな」

と…

八人の子供達がゾロゾロ部屋の中を移動しながら探す様子を想像し自分も楽しめて、それで子供達も

「勘弁してくれよ」

と思いながらも、きっと楽しんでくれていたと思います。


子供達もやがて成長して分別と常識を身に付けていく中で

「あれは、ごまかされてたな」

ということに気付くのでしょうが、それはそれで

「楽しかった」

という思いさえ残れば親として、愉快に生きていく方法をひとつ伝えられたわけです。


なぜ、今を愉快に生きていかなければならないのか…

それは愉快に生きてさえいれば…

何年も前のことを思い出して歯軋りをしたり、誰かのせいにしたり何かのせいにして悔しい思いをせずに済むからです。

そこから発生する二次的なストレスはまた大きいですからね。


今を有意義に過ごしてさえいれば大小こそあれ

「ま、いいか」

と、案外そう思えるものです。


面白く暮らせるかどうかは、自分次第です。


しあわせに暮らせるかどうかは、しあわせだと思えるかどうかだけですよね。


何から何までそうあ若い頃は

「どちらかといえば、しあわせ」

ぐらいでよしとしましょう。

そう思って生きていると、年齢を重ねていけば不思議なことに

「自分の人生は幸せだった」

と染々感じるようになるものです。



生きて年齢を重ねていくということは、とにもかくにも有難いことです。



はい、左様なり♪