両親は共に大正生まれでした。
昭和四十年生まれの自分ですが、親は太平洋戦争からの帰還兵です。
ここまでの人生において、父親が出兵経験があるという同級生には出会ったことがありません。
堅い公務員であった父親は春から秋にかけて、仕事から帰ると毎日木を切って割っての作業をしていた印象です。
我が家は煮炊きも暖房も薪だったので、降雪の前に冬の間のそれを蓄える必要があったからです。

因みに令和のこの時代になり、息子が家長となった今もそれは変わっていません。

父親は口数が少ない人で…
黙々と働いて、日が落ちると家に入り延々と日本酒を口に運んでいました。
そして酒が入るに付けくどくなり…
小学生の頃はよく、深夜に及ぶまで話し相手としてのターゲットにされたものです。

しかし自分が中学生になり、世間に迷惑を掛けようともそれが輝いて生きていることだと勘違いし始めた頃から…

父親と会話することは殆どなくなりました。
 
そして中学三年生の秋頃だっと思います、酒を飲んでいた父親が突然自分に
「中学を卒業したら、どうするんだ?」
と話しかけて来たのです。
いきがってはいても15歳のただの田舎者だった小僧は、父親が自分に興味を持ってくれたことに驚きながらも嬉しくて確か
「高校には行きたいと思う」
的なことを言ったと思います。

父親は
「世の中はな……」 
そう切り出して、珍しく人生の指南を始めました。
当然真剣に聞かねばと、真っ直ぐ父親の目を見たのです。 
すると間もなく父親は
「親をそんな目で見るんじゃ、ありません!」
と怒りだして、そっぽを向いてしまいました。

いやいや、貴方の息子はただ貴方の言葉を真剣に聞こうとしていただけです。
それが解らない伝わらないのは、普段から我が子の観察をしていないからでしょう。
声を掛けてきたのもただの気紛れだったのかと、本当にショックを受けたものです。
「この人に何かを期待するのはやめよう」 
そう思いさえしました。

勿論あれもこれも…
興味を持って貰いたいという気持ちを裏返してしまう、未熟な生き物であるが故の性です。

親元を離れて通学することになった高校で始めた柔道で、思い掛けず早い段階で県大会の表彰台に上がることが出来ました。
身近にそんな存在のない田舎で育った自分は、自らもきっと誇らしかったのでしょうし
「これは誉めて貰える」
と思ったのでしょう、用事があると嘘までついて高校から100km以上も離れた実家に戻ったのです。
家の前まで行くと、父親は薪割りの手を止めて隣の親父さんと話をしているところでした。

「ほら!」
父親の目の前に賞状とメダルを差し出すと
「ああ…」
と言って受けとると広げもせず横の薪の上に置いて、隣の親父さんとの会話を続けていました。
大きな峠を越えて数時間を掛けて実家に帰った17歳の小僧は、いたたまれない気持ちになったものです。    

振り替えれば、ただのコミニュケーションが下手な父親とコミュニケーションが下手な息子との一場面だというだけなのですが…
なにしろなにしろ、まだクソ未熟な小僧でしたからね。   
 
しかしそのコミニュケーション能力の欠落が、やがてやらかしてしまうのです。
平成の九年か十年に父親が他界してしまうのですが、その直前に五人の子供を連れてお見舞いに行きました。
病院に向かう車の中で兄から
「親父が“俺はもうダメなのか”と聞いてくるのだが、あれが辛い…」
そう聞いた自分はベッドの横に駆けつけるなり、父親に
「死ぬのを怖がっているんだって?
70歳も過ぎて死ぬのが怖いなんて、大した人生じゃなかったっすね」
と言ってしまったのです。
親父は
「んふっ」
っと、笑ったような気がしました。

次の日また見舞いに行って
「親父、じゃあ静岡に帰るからな」
そう伝えて、五人の子供達に
「ほら、じぃちゃんにチューしてやりな」
というと子供逹は嫌がりせずじぃちゃんの顔を取り囲んで、あちこちから頬やオデコにチューをしました。
父親は「見送る」と言って…
病室を出る我々を、起きて座り、手を振ってくれました。

そのわずか八時間後、静岡に着いたばかりの自分に姉から
「たった今、亡くなったからね」
との電話が入りました。
孫からチューされるなんて風習のないあの田舎で、チューをされた瞬間に確かに照れた表情をしていのに…

なぜあの時、病室で父親にあんなことを言ってしまったのか…  
きっと「貴方の息子はこんなに逞しい男に成長しましたよ」
と伝えたかったのかも知れませんが、明らかに良い手段ではありませんでした。 

やがて自分も父親になり息子とのコミニュケーションをとる立場となり、息子と過ごす時間が楽しくて仕方なくなると…
「俺の親父もきっとこんな風に過ごしたかったに違いない、でも田舎で生まれ育ってシャイだった親父は出来なかったのだろう」
と思うようになりました。
ならば積極的に懐くべきはこちらだった、もっともっと父親に近付き、話し、聞いて、教わるべきでした。
背も高く生真面目で働き者の父親に何一つ似ていないくせに、コミニュケーションの取り方が下手くそなところだけ似てしまった息子です。

先日、姉から
「懐かしいのが出てきたよ」 
と大正生まれの父親の写真が送られて来ました。

「出来の悪い息子だったでしょうが、お陰様で愉快に暮らしてますから勘弁して下さい」

そう言うしかありません。

感謝しております。



はい、左様なり♪