少子高齢化問題が取り沙汰される世の中になって一体どれぐらいが経つのでしょう、我が家の第一子が誕生した頃にはもう耳にしていたような気がします。
とすると四半世紀以上が経過していることになりますが、何か目に見える成果をあげた対策があるようには思えません。

大家族としてメディアにも露出していた我が家は
“少子化問題に貢献している”
というような言われ方をすることがありますが、もちろんそんなことを意識した結果が子沢山になったわけではありません。
最初の子から八人は年子で生まれており… 
一番上の子が中学3年の時には、小学1年生から中学3年までの九学年に八人が通う状態でした。
三人目が生まれた頃にその三人の顔を見ながら
「どこかで避妊をしていれば、どの子かがいなかったんだな…」 
と思うと、避妊してなくて本当に良かったなと思ったんですよね。

子供が多いと教育も含めて
「充分なことがしてあげられるのか」 
ということをよく言われますし…
あたかもそんな考えが根底にあるが故に、何人もの子供を産むことを躊躇しているような言葉も聞きます。  
しかしそもそも何が出来ていれば充分で、何が出来ていなければ不充分なのでしょう。

確かに子供は、自分をとりまく環境を選んで産まれてくることは出来ませんよね。 
でもそれは産まれてくる全ての子供がそうであって…
長男に産まれたかったなとか末っ子が良かったとか裕福な家庭が良かったとか、それぞれの思いはそれはあるでしょう。   
ですが結論として 
「この家庭の子供で良かった」
と思える成長過程を辿れるかどうかは、家庭の在り方に依るような気がします。

そして 
「この家族の一員で良かった」
と思いながら育った子供は、やがて自分が形成するであろう“家族”も楽しみな人生になるのではないでしょうか。

その子の資質にもよるとまで言ってしまうと、もう身も蓋もありませんが…

キリンの首がなぜ長くなったのかと考察すると、もしかしたら
「もう少し首が長かったら高い枝の葉も食べられて、我々種族が生き残れるのに…」
という思いが何世代にも渡った結果、あのように進化したのかも知れません。
それではその思いはいつ次世代に伝わったのかというと、生きている間の
「もう少し首が長かったら…」
という思いが遺伝子に書き込まれ、我が子に伝えられるからだと思います。

つまり…
どういうことを考えて生きているのかということが、自分の持つ遺伝子に組み込まれる可能性がありますよね。
ということは
「もう一人子供が出来たらゴルフにも行けない」 
とか
「大好きな車も買い換えられない」
とか
「教育費が大変」
とか思いながら生きていると、その思いも次世代に伝わるのではないでしょうか。

そしてそれが何世代にも渡ると…

そう考えるととりあえず今目の前にいる我が子に「産まれて来てくれて本当に嬉しい」という気持ちを、惜しみ無くふりそそぎながら育てたいものですね。
もちろん2人目も3人目も4人目も5人目も……
そうすればやがて将来、愉快な家庭を築いてくれる様になるのかも知れません。


吾輩みたいな人間が曲がりなりにも親をしてこれたのは、子供の存在があったからです。
吾輩の怠け癖も 
吾輩の狂暴性も
彼等彼女等のお陰でかなり矯正されたと思います。

子供が居なければとっくに、社会から弾かれていたかも知れません。

感謝しつつ… 
これからも我が子の生ける遺伝子にいい影響を与えられる余生であればと願います。




はい、左様なり♪