経営難に陥っていた「尾張電気軌道株式会社」を買収したのは、刈谷町(刈谷市)に本社を置いた「三河鉄道株式会社」でありました。昭和4年6月1日に我が「尾張電気軌道」は、三河鉄道系の「新三河鉄道」に営業譲渡されてしまいます。本稿ではこの「三河鉄道」と「新三河鉄道」の関係について探求したいと思います。


明治43年11月、刈谷出身の衆議・三浦逸平氏、水力発電や電気軌道の事業化を多く手掛けていた大阪の才賀商店の才賀藤吉氏はじめ、愛知県碧海郡の有力者であった高野松次郎氏、石原一郎氏、岡島兵作氏らが発起人となって、知立町(知立市)~大浜町(碧南市)間の「碧海軽便鉄道」の敷設許可を出願します。碧海郡役所が置かれていた知立町には東海道線の停車場がなく、東海道線からは陸側に位置し、また大浜、高浜などは海側にあり、郡内を南北に貫き、東海道線と刈谷停車場で交差する敷設計画がなされた訳です。


明治45年5月30日に刈谷町の正覚寺において創立総会が開催され、社名を「三河鉄道株式会社」(資本金50万円)とします。社長には武山勘七、専務には三浦逸平氏が就任しました。さらに大正元年10月には、知立町から挙母町(豊田市)まで敷設免許を得ていた「知挙軽便鉄道」から三河鉄道が免許権を譲り受けました。大正2年1月から刈谷~大浜間で工事に着手し、大正3年2月5日に刈谷~大浜港14.5キロ、大正4年10月28日に知立~刈谷間4.0キロが開業しました。
しかし三河鉄道では計画どおり収益があがらず経営が安定せず、社長が不在となっていたため、株主有志が動いて、神谷傳兵衛氏(初代)に社長就任を依頼しました。神谷氏は西尾出身で、浅草の神谷バーや牛久のシャトーカミヤの創設者でありました。大正5年4月に社長に就任した神谷傳兵衛氏は事業拡大のため、新線計画に着手して大正9年7月に知立から土橋、11月に挙母(現豊田市駅)、11年1月に越戸まで18.0キロが全通(現名鉄三河線)、公共交通網の整備が進んでいなかった西加茂郡が鉄道でつながった瞬間でありました。

△絵葉書 三河鉄道 猿投・大浜間 電車開通記念

 

西加茂郡から碧海郡まで鉄道がつながったものの、三河鉄道の乗客数は伸びず、昭和恐慌にも直面して経営は悪化し、昭和5年4月に愛知電気鉄道(現名鉄)と一旦は合併合意します。しかしその後、同年9月に三河鉄道の資産内容に不信をもった愛知電気鉄道から断りが入り、合併計画は解消されました。

この合併解消した要因の一つが、昭和4年6月1日に、三河鉄道が買収した尾張電気軌道(八事電車)の資産評価の見解の相違と云われています。その後、国の指導により三河鉄道は昭和16年6月1日に名古屋鉄道と合併しました。

さて、三河鉄道が尾張電気軌道を買収した経緯が「名古屋鉄道社史」に掲載されていましたので、最後に紹介します。
 

《名古屋鉄道社史》
■新三河鉄道株式会社
 大正15年10月、西加茂郡挙母町の外山市太郎、高橋村の都築峯太郎氏ら8名は、名古屋市の千種から挙母を経て、東加茂郡松平村九久平に至る間の鉄道敷設免許を得て、「西三河鉄道株式会社」を設立しようとした。株式の引受けが少ないので天白区島田の大地主松本繁一氏をはじめ、沿線有志や名古屋の「尾張電気軌道」へも参加の呼びかけをした。三河鉄道では実現の暁は著しい影響があるとして参加することとした。社名を「新三河鉄道」と改め、昭和2年9月11日、挙母町で創立総会を開いた。資本金240万円とし、社長には多数株式を所有する社長神谷傳兵衛氏(二代目)が就任した。翌3年12月、挙母~八事間の工事施工許可を得たが、前途の収益予想がたたないまま着工しなかった。
■尾張電気軌道の買収と解散
 昭和4年6月、東八事~千種間・大久手~今池間計6.5kmの軌道営業と、名古屋市内で乗合自動車を経営していた「尾張電気軌道」を買収し、その事業を引き継いだ。尾張電気軌道から継承した事業は、市内交通機関の故をもって市営の対象となり昭和12年3月、軌道部・自動車部とも名古屋市へ譲渡し、同社は同年12月16日解散した。新三河鉄道の保有していた挙母~八事間の鉄道敷設権と、郊外自動車線は三河鉄道に引き継がれ、同社の合併により現在会社(注:名鉄のこと)が受け継いでいる。

△豊田市鞍ヶ池公園に保存されている名鉄電車

 

《補足》
 「名古屋鉄道」に受け継がれた挙母~八事」間の鉄道敷設権により、昭和54年7月29日名鉄豊田線(赤池~梅坪間)が開業します。愛知県日進市の赤池駅から豊田市の梅坪駅までを結ぶ名鉄の鉄道路線で、開通当初は豊田新線と呼ばれていました。名鉄豊田線は名鉄三河線・市営地下鉄鶴舞線と直通運転を行い、地下鉄・上小田井~鶴舞~八事~赤池~名鉄・豊田市駅間を往復する運行を基本としています。

 現在、愛知県豊田市の鞍ヶ池公園に「名鉄モ800型」と「名鉄ク2300型」が連結された形で保存展示されています。モ800型は昭和10年に、ク2300型は昭和13年に日本車輌製造で製作され、名鉄本線用では最古参の電車。当時、名古屋押切〜新岐阜間を結ぶ花形特急電車としてデビューし、昭和23年5月には豊橋〜新名古屋〜新岐阜間で直通運転が開始された際、同区間の直通電車として活躍しました。ここ鞍ヶ池公園に展示されている理由は、豊田市民が長年待ち望んでいた「名鉄豊田新線」(豊田市〜赤池)の開通(昭和54年)に先駆け、3ヶ月間、この2両編成でレール、信号、列車自動停止装置の作動など数々のテストを繰り返した「試験車両」であったことから、名鉄から豊田市へ寄贈された経緯があるそうです。



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