名古屋市立千種小学校は、明治5年5月1日に「義校隆道学校」として創設され、千種区内で最も古い歴史を持つ小学校です。愛知郡古井村(こいむら)に開校して以来、150年以上の伝統を紡いでいます。 戦後の昭和22年、学制改革により現在の校名である「千種小学校」に改称しています。

 

さて、尾電資料探索の中で、小学校の周年記念誌に地域の歴史が残されていることが分かり、そこで「尾張電気軌道」沿線の小学校の周年記念誌を確認しています。そんな中、千種小学校が発行した創立八十八周年記念誌「ちくさ」に興味深い内容がありました。(※八十八歳のお祝いは「米寿」だから、記念誌を出したのかな?)

 

■千種小学校 創立八十八周年記念誌「ちくさ」(昭和36年刊)

△明治初年の千種村(赤が高牟神社、青が馬池(=今池)、緑が善久寺、黄色が駿河街道=飯田街道)

 

◆古井村のようす
・名古屋城下町の周囲には、あちらこちらに一団となった農村があった。この古井村もその一つであるが、南に御器所村、 北東に上野村、丘陵上に丸山村があったほか、このあたりは一面の田野であった。
・古井村は、名古屋城下町にもっとも近く、現在の高牟神社の南にかたまった村が古井村であったから、西裏あたりまで行けばもう町になっていたわけである。

△高牟神社(かつて古井村の中心部だった)/延喜式(927年編纂)にも記載されている格式ある神社。恋を生む霊水、武運を司る神様が祀られている。


・古井村へは、名古屋から直接道路が通じ、名古屋との関係は経済的にも密接であった。いわゆるのちの飯田街道のことで、駿河町から、川名、平針を経て、岡崎方面や足助方面へ通ずる主要街道であった。(注釈∶江戸時代には駿河街道と呼ばれた)この街道がひらかれたのは、慶長17年 (1612) であることから、名古屋城府ができる頃に開かれた街道であった。
・駿河街道から「馬道」が現在の大久手電停のあたりから春岡小学校のあたりに通じ、末森村から、東山公園を経て東部山地地域に達していた。この道には「人馬が多く通行」した交通量の多い道路であった。

・これまでの古井村は明治9年千種村と改称した。古井村はおそらく中世期から呼びならわされたてきたが、このときに至って村名が消えることになり、縁もない千種と呼ぶようになった事由については判らない。ついで、明治35年に千種町となり町制を敷くに至った。大正10年名古屋市に編入された。(※なぜ「千種」へと改称したのか現在でも不明らしい)

△善久寺/天正19(1591)年の創建。本尊は聖観世音菩薩。境内に明治の小作争議の指導者小塚鉞助の碑が建っている。
 

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この千種小学校のあたりには昔、馬を洗っていたことから名付けられた「馬池」と呼ばれる池があり、それがなまって「今池」の名の由来となったといわれています。その池も大正10年に埋め立てられて、現在は今池中学校の敷地になっています。その思い出話が記念誌「ちくさ」に掲載されていました。

◆今池の移り変わり(対談抜粋)
・ちょっと参考までに今池といっておりますのはな、以前は今池とは言わなかったんです。うま池と言ったんです。「まいけ」「まいけ」と言ったんだがその証拠はないのですが、何か関係があったんでしょう。
・旧藩時代に馬を持ってきて洗っておったから、「まいけ」「まいけ」といったんです。

△埋め立て前の馬池(=今池)※池ざらいの様子

△馬池があった場所に建つ今池中学校

 

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そんななか、肝心の「尾張電気軌道」については、簡単ですが絵とともにしっかりと掲載されていました。


◆八事電車
・人々は八事電車と呼んでいたが正式は、明治四十五年四月に開業した「尾張電気軌道」で、名古屋の株屋で江口利四郎という人が経営した(注釈∶江口理三郎の間違いです)。電車は全部で十二台、一番から十二番まであつて、その内九号車は霊柩車であった。途中「新三河鉄道」といっていたが、これから見ても三河まで延長する計画があったかも知れない。約三十年ばかり続いて昭和十二年市電に合併した。季節には「山行き客」 の八事名物蝶々をかざした人で混み合いました。


◆愛知馬車鉄道
・明治二十九年十月、飯田街道に小出藤十郎、川合文三郎等が発起人となってつくった。千種刑務所(注釈∶現在の吹上公園あたり)から興正寺西までの間、約一里を単線にて走らせた。

 

◆元教師・生徒さんによる尾電の思い出(抜粋)

・その当時(大正8年)の千種の校舎は、平屋建二棟と二階建校舎であったと思います。正門は今の南門の処で、今の北校舎の処に二階建て校舎があって、その裏を尾張電車が八事より千早まで今では見られぬ上下振動のひどい旧型のチンチン電車がのろのろ走っていた。 

 

・二十五年も昔になると、現在では想像もつかないほどの田舎町でした。大久手の三叉路には、千早、今池、八事に走る電車が、ゴトゴト走り、ところどころの電車道にはペンペン草が生えていましたし、交通量は、古井坂通りとよぶ飯田街道が主要なもので、あとは広いごたごたした道路が通行する人も少く、あくびをしているような格好でした。元古井や古井坂通りまでは、都市化が進み、まだところどころに農家もありましたので、千種小学校から東の方は、水田や畑の連続でした。ボツボツ住宅が建ちはじめ、ようやくどこも町になろうとしていた頃でした。

 

・当時は現在の南門が正門で、その正面に奉安殿、国旗掲揚塔があり、その後に平屋建の職員室があり、その後に教室が一棟か二棟あり西の方に鍵になって、当時の新校舎があった事を記憶している。現在の正門の前には新三河鉄道と称するボロ電車が一区間一銭で八事から千早まで走っておりました。

 

・私の小学校当時、この地方は愛知郡で、二年生の時、名古屋市に合併された。往還(飯田街道千種本町附近)の両側には商店、その裏側は一面畑で、往環から高牟神社への旧道、 吹上に通ずる郡道沿いに一文菓子屋と百姓家が点々とあり、 東方は田んぼであった。監獄(今の刑務所)、坊主学校(小学校の東隣にあった、愛知学院の前身の旧制中学校)、馬池(今池のことで現在では埋立られて、今池中学校及び東方一帯)、八事電車(葬式電車といわれ千早から大久手を経て、八事火葬場行)等が特に印象に残っている。

 

・今の千種本町六丁目から八事まで、鉄道馬車が引かれていた頃に、八事の音聞山で大演習があり、大正天皇が皇太子時代におみえになり、生徒一同でお迎えした事もありました。その時は五人引きの人力車にお乗りになってみえ、立派なお車でした。

△高牟神社のすぐ北側にあるJR 千種駅のようす

△JR千種駅前(八事行バスが時間待ち中)
△千種駅前から尾張電気軌道の後継路線の市バスに乗ります


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