前ブログにおいて、「尾張電気軌道」が敷設した八事電車の軌道を引き継いだ「新三河鉄道」が、事業を名古屋市へ譲渡することを決議する「臨時株主総会」の招集通知書を紹介しました(昭和12年1月18日開催)。

当時の新三河鉄道の経営業況の一端が見える記述が、譲渡を受けた名古屋市交通局の「市営三十年史」の中にありますので、ご紹介します。

 

■昭和3年12月、更に社名を新三河鉄道鉄道株式会社と改め、翌4年1月にはバス事業を兼営し、矢場町-八事矢場町-呼続熱田-八事の3系統を主系統とし、他に5線の連絡系統を以て、殆んど市営バスと併行運転を行い、其の沿線には熱田神宮、八事山、鶴舞公園等をもち、その業績には見るべきものがあった

之に反し軌道事業は、沿線に住宅、同、学校、運動場の建設を見、また市営バスの乗り入れ等の刺激を受けて、運賃の区間制に依り低賃金短区間の乗客を増やしたが、軌道施設は極度に疲弊し、市に買収されるとしても、新建設費に近い改良費を投ぜねばならぬ程の荒廃振りであって、昭和2年以来5年下半期までは5分、6年下半期までは4分の配当を行ったが、其の後経営は全く適切を欠き、無配当の状態であった

△回数乗車券の表紙 

△回数券裏面のバス路線図

 

ということで、名古屋市への譲渡がきまった昭和11年ころには、新三河鉄道は経営に行き詰まり、無配状態であったとは驚きです。

さて、今回、昭和11年4月と刻印のある「新三河鉄道 乗合自動車 特区 回数乗車券」の表紙を発見しました。裏面には、乗合自動車の営業路線図が掲載されています。「市営三十年史」の記述にある通り、矢場町-八事矢場町-呼続熱田-八事3系統を中心に描かれています。八事が右端にあり、左端に矢場町、下の方に呼続が描かれています。

乗合自動車事業のバスの拠点八事となっているは当然「尾張電気軌道」の終点であったからですが、矢場町をバスの拠点としているのは名古屋市の中心部であることの他に、もともと「尾張電気軌道」の軌道を敷設した際に、矢場町~八事とを結ぶ計画があったからです。しかし、鉄道省の中央線を平面で交差することが出来ず、結局、「尾張電気軌道」は途中の千早(ちはや)~八事間で運行していました。

 

さて疑問は、なぜ、呼続(よびつぎ)がバスのもう一つの拠点となったのか。これは現在の名鉄の前身の「愛知電気鉄道(愛電)」の豊橋線(現・名鉄名古屋本線)が当時は神宮前~豊橋間での営業であり、神宮前から先の新名古屋駅までつながっておらず、三河や名古屋南部の人達が八事や矢場町方面へ向かう場合、この呼続や愛電前でバスに乗り換えた方が便利だったからだと思われます。なお、新名古屋~神宮前を結ぶ「東西連絡線」は昭和19年9月1日に開通しています。

最後に、当時の乗合自動車の絵葉書をつけておきます。残念ながら新三河鉄道のバスではありませんが‥。

△絵葉書 名古屋循環自動車 二十人乗 レオ号

 

 

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