コロナ禍のなか、小さな発見がありました。

「尾張電気軌道」は、既にお知らせしてきたように、千種町内や安田通りの土地買収等に手間取り、第1期として明治45年4月21日に「千早」~「興正寺前(八事)」間で暫定開通します。その後、大正元年9月19日に「興正寺前」から「天道」まで延伸されることになります。

少し説明を加えますと、明治45年という年は7月30日までで、明治天皇の崩御によって大正と年号が変わりましたので、同じ年の9月に「天道」まで、尾張電気軌道は延伸したと云うことになります。終点の電停「天道」は、現在の「八事交差点」附近、地下鉄八事駅の1番出口EV地上口辺りにありました。

△尾張電気軌道 開業広告(右端が天道停留所)

 

尾張電気軌道の終点は、開業当時、電停「天道」という名前だったのですが、その後「八事」へ名称変更されています。天道という地名は、八事南交差点の近くの「天道山高照寺」の山号からきていて、八事南交差点から南へ少し坂を下ると高照寺の門前に至ります。

△石標「天道山大門」(直進すると天道山高照寺)

 

現在、この八事南交差点付近の歩道上に、天道山高照寺の「天道山大門」という石標・道標が建っています。じっくりと眺めましたところ、この石標の建立が大正元年となっています。つまり、尾張電気軌道が八事交差点まで延伸されるのに併せ、天道山高照寺への道標として建てられたものと推察されます。

△建立は大正元年

 

天道山一帯は、当時、名古屋人の山遊びの地でした。尾張電気軌道の開通により多くの人が訪れるようになり、行楽客の利便を図るためこの石標は整備されたものと思われます。なかなか尾張電気軌道の遺産が残されていない中で、少しうれしくなりました。

 

 

で、問題は「天道山大門」の石標の左側に回り込むと、石標の寄進者の氏名が刻まれています。「伊藤萬蔵」さんという方です。この人、明治期にはかなりの有名人であったと云われています。私もこの人の名前を以前から知っていました。なぜ知っているかというと、愛知県内の寺社仏閣を訪ねると、必ずこの伊藤萬蔵さんが寄進した鳥居や石灯篭や標柱、石碑が目に入るからです。

△石標には「伊藤萬蔵」さんの名前
 

伊藤萬蔵さんは、天保4年(1833)に愛知県一宮市(旧平島村)の農家に生まれ、幼くして名古屋に丁稚奉公に出されたようです。その後の経過はよくわかっていませんが、名古屋の米相場で大儲けして、貸金業に転身したようです。「伊藤萬蔵 WHO?」という疑問は、探求していた人たちの努力のお蔭で実像が明らかなっています。

△伊藤萬蔵さん

 

石灯篭などに刻まれている萬蔵さんの住所は「名古屋市西区塩町」。現在は西区那古野一丁目あたり、景雲橋の南側です。延米商(米の先物取引)→貸金業→貸家業へと転身し、東外堀町に百を超す貸家があったと云います(驚)。
こうして財を成した萬蔵さんは、明治から大正にかけ半世紀にわたって、全国各地の寺社仏閣に石灯篭、狛犬、常夜灯、標柱、鳥居など石造物を千基ほど寄進したと云われています。寄進先は、名古屋のみならず、京都、奈良、高野山、四国八十八カ所などにも及びます。

萬蔵さんは昭和2年1月28日に大往生し、1月30日に現在の白川公園にあった誓願寺で盛大な葬儀が執り行われました。当時の新愛知新聞(中日新聞の前身)に追悼記事が掲載されています。


「名古屋の名物老人・伊藤萬蔵翁は95歳の高齢で亡くなった。翁は一種の奇人でもあるが、意思堅固自信力の強い人であった。 (中略) 三、四十年の間に各地の名刹名社に鳥居または石灯籠を寄進せし、ここ既に一千基に近しと云う。自分共が遠隔の地方に旅行して、またまた神社仏閣に参拝し、名古屋塩町・伊藤萬蔵奉納と刻せる鳥居または石灯篭を目撃せし事、実に数え切れぬ程である。翁曰く、平生の養生法は別に是と云ふ事は無く、唯早く寝て早く起き、酒煙草は嫌ひ、常に神仏を信仰せばそれで長命は出来る。鳥居や石灯籠は随分沢山寄進したが、まだまだ寄進したい場所がいくらでもある。毎年予算を立て、数を定め、追々ご寄進する積りである。…」

△八事善光寺への石標にも伊藤萬蔵さんの名があります。
△八事山 興正寺 能満堂 にもあった!
△奉納 伊藤萬蔵 の文字
 
皆さんも伊藤萬蔵さんの石造物を探し歩いてみてください。

 

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