15年くらい前になりましょうか、名古屋市交通局OBの方々から、尾張電気軌道やその後市営化された八事電車に関する話を聞いていたところ、その中のひとりから「ところで『船見山遊園地』について調べているが、何か情報はないか?」と尋ねられました。その時初めて聞いた名だったので分からないと答えましたが、その後ずっと気になっていました。

このたび、この「船見山遊園地」らしき絵葉書を発見・救出しました。

△絵葉書 八事山 天道遊園地(名古屋名所)

 

「船見山遊園地」あるいは「船見遊園地」と呼ばれた娯楽施設は、現在の名古屋市天白区八事天道の町内にありました。尾張電気軌道が経営していた「八事遊園地」とは全く別ものの遊園地であります。イオン八事ショッピングセンターから山手グリーンロードを挟んだ南側にあり、当時、「船見山」と呼ばれていた小高い丘の山頂一帯に設置された遊園地であったようです。

△イオン八事前の山手グリーンロード(左手奥側のマンションが建て込んでいるあたりが船見山遊園地のあった場所)

 

今般、昭和8年刊の「大名古屋」(名古屋市役所編)という本の中に、「船見山遊園地」の記述を見つけました。少し長くなりますが‥…

■第十一項 名所、旧跡、遊覧地

 名古屋の地は昔、阿由地潟が奥深く湾入して、至る所、丘陵は起伏し風致に富み、名所旧跡もかなり多かったが、時代の推移に伴って今、その面影を留むるものは甚だ少なく、唯東方一帯の丘陵地と庄内川の沿岸には今もなお昔ながらの風致を存じている。

■八事山一帯

 市の東端に起伏する丘陵は南北に伸びて連坦し、平地都市としての名古屋の唯一の自然公園であり、また旧跡にも富んでいる。古来、名古屋市民は興正寺を中心に「山行き」の場所として、四季この地に遊ぶ事を楽しみとしている。現今は市営バスを始め、私設各バス、並びに新三河電気鉄道等の便宜があって、容易にこの地の探勝を為し得るので遊山客も甚だ多い。

■興正寺境内

 境内は甚だ広く風致に富み、松林の間に隠見する五重塔は好個の書題である。進めば山あり、谷あり、森あり、其の間に普門堂、妙見堂、大日堂等の雅たる建物が点在し、躑躅(つつじ)、楓(かえで)は四季折々の風情を添えている。又裏山大日堂より程遠からざる所に秀桑園梅林がありて、早春の開花時には満山馥郁たる香気に満たされ、鑑賞の杖を曳く雅人も多い。

■妙見堂

 梅林の西北経路を登り詰めたところに小さい堂あり。美しい環境で紅葉の名所になっている。

△新三河鉄道 記念写真貼 秀桑園(昭和12年)

 

■音聞山御野立所跡

 興正寺より東方約十丁(約1km)、明治二十三年、大正二年の両度、特別大演習に際し、畏れ多くも、明治、大正両陛下御駐輦の光栄に浴し、現に御野立所跡には大正二年大演習当時の愛知県知事松井茂氏の選文、第三師団長仙波太郎中将の書になる記念碑が建立されている。又此の地は天白川を挟んで植田、平針等天白村の諸邑を俯瞰し、遥かに南方遠く海を隔てて紀勢の諸峯を望むことが出来る風光の地である。

■遊園地

 船見山遊園地は興正寺より南方約三丁(約300m)、最近諸種の娯楽施設を完備して、遊山客を楽しませている。又付近には新三河鉄道の経営する野球場があり、野球ファンを吸収しているが、近時は鳴海球場に壓(お)されて稍々(やや)振るわない。料亭八勝館は興正寺門前にあり、自然の風致をとり入れたる広大な庭園と数奇を凝らした建物を以て名高い。

△新三河鉄道 記念写真貼 船見遊園地(昭和12年)

 

文中に出てくる「新三河鉄道」とは、わが「尾張電気軌道」の路線を昭和4年に引き継いだ鉄道会社です。この新三河鉄道が発行した、「新三河鉄道 記念写真貼」の中に「船見山遊園地」の画像がありました!!!(写真貼のクレジットは船見遊園地になっています)。

この新三河鉄道の写真貼をよ~く見てみますと、遊園地は上下二段からなっていて、山頂部となる上段部と、遊具が置いてある下段部の二つに分かれているように見えます。また、上段部と下段部の間には高低差を利用した滑り台やブランコなどが設置されていることが分かります。

つまり、冒頭の絵葉書は上段の様子を写し出していて、新三河鉄道の写真貼は下段からの様子を写し出しているものと思われます。


 

しかも、「続・天白区の歴史」(愛知県郷土資料刊行会)の中にも、「船見山遊園地」の滑り台についての記述を見つけました。

■八事遊園地の近くに、昭和元年から十二年まで『船見遊園地』があった。(ここでも、名称が船見遊園地となっています。)

これは熊沢彦三郎氏の建設したもので、名古屋一といわれる滑り台があった

 

さらに「概観 川名地誌」(昭和39年刊)という本には、「船見山遊園地」の位置が分かる地図が尾張電気軌道のイラストとともに添付されていました。少し感動ものです!!(こちらも船見遊園地となっています。)

△概観 川名地誌(電停八事の下に船見遊園地の文字が見える)

 

 

いつもお世話になる「八事・杁中 歴史散歩」にも記載がありましたので、紹介してみます。

■船見山は、江戸時代には山遊びの場所として有名で、『尾張名所図会』にも山遊びのようすが描かれています。また、尾張藩士であった高力猿猴庵(1756~1831)が描いた絵などを見ると、意外にもはげ山に近い状態でした。燃料などに使うため、乱伐が進んでいたようです。

■船見山はその名の通り、遠く伊勢湾まで見渡せました。最近まで空き地となっていた山頂から南西を望むと、八事丘陵の尾根に建ち並ぶ家々の屋根やマンションが眼前に展開し、海こそ見えなくなっていますが、往時の絶景を頭の中に描くことができます。

昭和初期、この地に船見山遊園地が開園します。当時、八事は名古屋の行楽地として絶頂期を迎えようとしていました。

 

 

さて、「船見山」という地名は八事地区には現在残されておらず、「天道山」という名で通っています

明治23年に発刊された「尾張名所図絵」(金華堂)のなかに、船見山遊園地ができる前の山頂部の様子が記されています。

■天道山は、八事村に在り。名古屋市の東方一里ばかり距(へだ)つ、山上平坦砥の如くにして、閑雅高邁の勝地なり。殊に山上より南方を眺望する時は尾三勢志(※尾張三河伊勢志摩のこと)の海面と山嶽とを両眸の裡に収むるありて、大いに心情の爽快なるを覚えしむ。

■之を以て春日の候に至れば、遊人此の山に蒐集(しゅうしゅう)し、絃哥(※楽器や歌)山上は涌き、舞踊厚地を動かし、頗(すこぶ)る賑やかなり。

△尾張名所図絵「天道山 春遊之景」(明治23年刊)

 

以上、一回目の報告はここまでとしますが、冒頭の絵葉書はもしかして「船見山遊園地」が正式に開園する前の船見山(天道山)山頂部の様子を写したものなのかもしれません。いずれにしても、「船見山遊園地」に関してバシッと記されている文献がありませんので、今後も継続して探求していきたいと思います。

 

 

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