「名古屋都市計画史」という本の中に「尾張電気軌道」の記述があるのを見つけました。

この「名古屋都市計画史」(大正8年〜昭和44年)は、平成11年に、財団法人名古屋都市センターが発行したもので、名古屋市当局による名古屋市まちづくりの経緯をまとめた本です。その中で、戦前の「鉄道及び軌道」項に、名古屋市内の電気軌道の戦前の様子が載っていましたので、記録に留めたいと思います。

内容は次のとおりです。いい仕事しています。報告します。

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〔軌 道〕

 電気軌道としては、名古屋市営の軌道が旧市域内に縦横に敷設され、その他、尾張電気軌道株式会社が経営する八事線、下之一色電車軌道株式会社経営の一色線、築地電軌株式会社経営の稲永線、名古屋土地株式会社経営の中村公園線等が名古屋都市計画区域内の輸送を分担していた。市営軌道と民営軌道との連絡は特に不便ではなかったが、将来の旧郡部の発展や隣接町村との交通連絡を考慮すると、さらに電車網の普及を図り、運転系統、経営方法等の改善に努力を払い、一大系統の下に整理統合する必要があった。
■名古屋市営電気軌道
 名古屋市内の電気軌道は、明治31年(1898)5月に名古屋電気鉄道株式会社が栄町線(笹島~久屋町間)を開通させたのがはじまりで、同社は同34年に押切線、同36年に栄町線延長、同41年に熱田線、同43年に公園線及び築港線、明治44年から大正元年(1912)にかけて公園線延長、江川線及び覚王山線、大正3年から同4年には御幸線、大曽根線、上江川線、葵町線、さらに同8年には葵町線延長及び熱田軌道株式会社を合併して東築地線、同10年には堀内線をそれぞれ開通させて、市内の電気軌道網を整備してきた。
 この間、高い運賃に対する市民の批判を受けて、明治41年6月には名古屋市と会社との間に毎年の利益の一定割合を市に納付するという報償契約が締結されたが、その第1条に「會社ハ、本契約締結ノ日ヨリ満二十五ケ年ヲ経過シタル後、市ノ希望二由リ會社営業及之二必要ナル物件全部ノ買収二應スヘキモノトス」とあり、電車市営論は識者の間で次第に声が高まり、大正9年7月の市会において満場一致で可決された。
(中略)
 市会の意見書を受けた名古屋市は、直ちに名古屋電気鉄逍株式会社に対し、下記の書面を添えて買収交渉に応じるよう申し入れた。
(中略)
 その後、市、市会及び会社の間に買収価格について幾多の紆余曲折があったが、愛知県知事の調停により大正10年10月に円満解決し、譲渡契約の成立をみて、同11年8月1日に正式に名古屋市の経営に移行した。


 市営移行までの路線開業状況は、表1-7のとおりであった。

 

■ 民営電気軌道
1) 尾張電気軌道株式会社(尾張電気軌道)
 尾張電気軌道の八事線は、明治45年(1912)4月に中区千早町~八事山興正寺門前間が営業を開始したのにはじまり、同年5月に大久手~今池間、大正元年(1912)9月には興正寺門前~天白村大字八事間が開通した。老松町で市営公園線と、今池では市営覚王山線と接続しており、郊外居住者や郊外への行楽客の交通に利用されていた。

2) 下之一色電車軌道株式会社(下之一色電車軌道)
 下之一色電車軌道の一色線は、南区熱田新尾頭町から愛知郡下之一色町字松蔭に至る路線で、大正2年12月に営業を開始しており、南区尾頭橋で市営江川線と接続していた。

3) 名古屋土地株式会社(中村電気軌道)
 中村電気軌道は、名古屋土地株式会社が旧中村付近の土地開発のために敷設したもので、大正2年10月に明治橋~中村公園間を営業開始した。その後、同12年5月に旭遊廓が大須から中村に移転したのを契機に付近一帯の市街化が急進したため、交通が輻輳し、交通事故も増えて、道路の拡輻やこの軌道の複線化が焦眉の課題となっていた。

4) 築地電軌株式会社(築地電気軌道)
 築地電軌株式会社の経営する稲永線は大正6年6月に開業した。この軌道は、南区築地口~稲永新田間の路線で、主に築港付近の工場通勤者や漁民等の交通機関として利用されていた。

なお、市営及び民営電気軌道の乗客数の累年比較は表1-8のとおりであった。

 

参考として、地方鉄道のことも記されているので、追記しておきます。

〔地方鉄道〕

 名古屋都市計画区域内に起終点を有する地方鉄道は、名古屋鉄道株式会社、瀬戸電気鉄道株式会社及び愛知電気鉄道株式会社の3社の経営する4線であった。

1) 名古屋鉄道株式会社

 名古屋電気鉄道株式会社が経営していた軌道部が名古屋市に買収されることになったため、大正10年(1921)6月、その地方鉄道部の事業を分離して名古屋鉄道株式会社が創立された。経営路線は、一宮線、犬山線、津島線、清洲線及び小牧線の5線で、この地方の地方鉄追の中で最も重要な役割を果たしていた。このうち、名古屋市内に起終点を有するのは、西区押切町を起点とし、西枇杷島町を経て一宮市に至る一宮線で、明治43年(1910)5月に押切町~枇杷島間が開通し、大正元年8月西印田まで延伸した。

 

2) 瀬戸電気鉄道株式会社

 瀬戸電気鉄道は、明治38年4月に東区矢田町~東春日井郡瀬戸町間が開通したのにはじまり、翌年3月には矢田町~大曽根間、明治44年5月には大曽根~士居下間、同年10月には土居下~堀川間が開通し、堀川~瀬戸間の全線開通をみるに至った。由来、瀬戸町は、製陶業をもって世に知られており、中央線大曽根駅および堀川運河に接続するこの鉄道は、交通運輸の重要な役割を担っていた。

 

3) 愛知電気鉄道株式会社

 愛知電気鉄道株式会社の経営する路線は常滑線と岡崎線があり、いずれも熱田神宮前を起点としていた。常滑線は、知多半島の三河湾側を通る国鉄武豊線に対し、伊勢湾側を通り常滑に至る路線で、大正2年8月に全線開通した。岡崎線は、最初大正6年5月に熱田神宮前~知多郡有松間を営業していたが、同11年7月に東海道電気鉄道株式会社及び新舞子土地株式会社と合併し、同12年6月から有松~岡崎間の運転も開始された。その後、常滑線大江町から分岐して東築港に至る築港線の開通をみた。

 
 
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