「愛知縣護國神社」の沿革について、同社ホームページには、次のように記されています。

 ■明治2年5月、尾張藩主 徳川慶勝 侯が、戊辰の役に戦死した藩士等二十五柱の神霊を、現在の名古屋市昭和区川名山にお祀りして「旌忠社」と号したのが始まりで、その後、嘉永6年以降、先の大東亜戦争に至るまでの愛知県ゆかりの御英霊九万三千余柱を、護國の大神としてお祀り申し上げております。

 ■神社名は、明治8年「招魂社」、同34年「官祭招魂社」、昭和14年「愛知縣護國神社」と改称、戦後一時「愛知神社」と称しましたが、同30年現社名に復称されました。 

■鎮座地は、大正7年現在の名古屋市北区名城公園、昭和10年に現社地に御遷座されました。同20年3月19日の空襲で御社殿は炎上しましたが、同33年11月本殿・拝殿等復興、同57年10月社務所竣工、平成10年3月神門・舞殿・廻廊が竣工して、戦災復興が完了されました。  

△尾張電気軌道刊 沿線案内 川名山招魂社(明治45年)

 

また、名古屋市昭和区役所が発行した「ぶらり昭和区MAP」には、尾張電気軌道に関連した記述があります。 

旌忠社跡/明治2年、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)が、戊辰戦争で戦死した藩士達25名の霊を名古屋市昭和区川名山にお祀り「旌忠社」(せいちゅうしゃ)と号しました。明治8年、国家の祭祀となり社殿を創建し、「招魂社」と改名しました。

■明治45年に、千早―興正寺前の「尾張電気軌道」が開通すると、「招魂社下」駅が設けられ、祭りには大変ににぎわったそうです。

■「招魂社(旌忠社)」は大正7年に城北練兵場(名城公園)へ、昭和10年に中区三の丸へ移転し、名称も「愛知県護国神社」となりました。 

△愛知県護国神社(名古屋市中区三の丸1-7-3)

△愛知県護国神社 社殿と参道
 

この招魂社跡ですが、愛知縣護國神社御鎮座百三十年を記念して、神社創建の地(昭和区川名山町)に「旌忠社跡」碑が、平成11年12月20日に建立されています。その跡地は、聖霊病院の敷地内にあり、その母体である社会福祉法人聖霊会のご好意により建立されたそうです。この石碑は聖霊病院の敷地の北端に建てられていますが、招魂社の社殿は石碑の南側の建物の先にあったようです。

△社会福祉法人聖霊会 聖霊病院
△「旌忠社跡」の碑(聖霊病院北側)
〔旌忠社跡の碑文〕

・明治二年五月二日尾張藩主徳川慶勝候此の地に社殿を造営 

・戊辰役戦死の藩士等二十五柱の霊を旌忠社と号し鎮祭 

・同八年官達により招魂社、同三十四年官祭招魂社と改称 

・大正七年に城北練兵場に遷座まで五十年英霊鎮魂の跡 

 

ここで気になるのが、徳川御三家であった尾張徳川藩の明治維新の動きです。幕末の尾張藩をリードしたのは、前藩主・徳川慶勝(藩主在任1849~58)でした。文久年間(1861~63)には、朝廷・幕府・諸藩間の調整に努め、元治元年(1864)、当時6歳で家督を継いだ藩主・義宜を補佐し、慶勝が幕府から第一次長州征伐の総督に任じられます。

しかし長州藩の処分をめぐり幕府と対立、慶応3年(1867)の王政復古に参加して新政府の議定職に就任します。翌慶應4年1月、尾張藩内でクーデター騒ぎが起き、「青松葉事件」により鎮圧されます。これは尾張藩の佐幕派と称される藩士14名を名古屋城内で処刑した事件で、その後尾張藩の藩論は一気に倒幕・尊王攘夷に傾き、戊辰戦争の新政府軍に参加していきます。そして尾張藩は甲信越方面に出兵、慶応4年(1868)5月の北越戦争(長岡戦争)などに参戦して、25名の戦死者を出しています。 

△青松葉事件が起こった名古屋城

 

前述の通り、戊辰戦争で戦死した尾張藩士25柱を昭和区川名山町に祀り、「旌忠社」と名付けました。「旌忠社」の「旌」とは「旗」の意味で、錦の御旗に忠誠を誓って戊辰戦争で亡くなった藩士を祀っています。

△愛知県護国神社裏手に移されている招魂社、旌忠社の石標

 

明治8年には「招魂社」と改められ、明治45年4月の「尾張電気軌道」開通と同時に、現在の杁中の地に、電停「招魂社下」が設けられ、多くの乗降客で賑わいました。

大正7年に招魂社が城北練兵場へ移転されて以降は、電停名を「杁中」(いりなか)に変更しています。 

△電停「招魂社下」があった「杁中東」交差点赤線が千早から八事へ向かう軌道跡〔飯田街道の旧道〕で、緑の丸が電停・招魂社下の位置、ここを右折すると招魂社があった聖霊病院へ至る)

 

 

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