明治45年に開通した「尾張電気軌道」が走った飯田街道は、江戸時代、人や物が盛んに往き来した道でした。天白村(現・天白区)やその奥の三河山間地(現・豊田市等)、さらには長野県飯田市あたりから野菜や麻、薬草、干し柿、茶葉などが馬に載せられて名古屋城下に運ばれ、還りには塩や海産物などが奥三河へと運ばれていきました。
 
これは「中馬」と呼ばれ、この中馬により運ばれた産物は、東田町(現・新栄)や駿河町(現・東桜)あたりで荷が降ろされ、還りの荷が積み込まれたため、東田町には塩や味噌、醤油、お茶を扱う商店が街道筋に立ち並んでいたそうです。「中馬」とは宿場町ごとで馬を替える必要がない「通し馬」あるいは「付通し」と呼ばれる仕組みのことで、飯田街道は別名「中馬街道」とも呼ばれていました。
△南山耕地整理組合 地区全図(図上端の飯田街道の上を尾張電気軌道の電車軌道が敷かれ、「杁中停留場」が置かれている)
 
一方、飯田街道筋の村々には、馬を飼うなど中馬に従事する人や蹄鉄を打つ職人が住み、旅人や荷を運ぶ人に食べ物・飲み物を提供する茶屋が徐々にでき、とくに八事石坂あたりの峠道には休息がとれる店が現れます。その後、八事山興正寺や天道山高照寺の前には参詣客を目当てにちょっとした門前町が形成されました。この状態は明治まで続いたようで、「尾張電気軌道」が開通する明治末期においても八事一帯は松林に覆われた丘陵地が続き、物資往来の通過点としてのどかな風景に包まれていました。
 
明治45年に「尾張電気軌道」が開通すると、沿線である名古屋東部丘陵地帯一帯で大正から昭和初期にかけて「耕地整理事業」が始まります。現在でいうところの土地区画整理事業です。空気が澄み、眺望もよいため、名古屋人に向けた宅地分譲が開始され、名古屋中心部から移り住んでくる人々が増えていきます。とくに名古屋特有の夏の蒸し暑さがしのげるということで、不動産屋は避暑地的な場所として「林間住宅」と銘打って売り出します。 
△南山耕地整理組合 売出し広告「尾電杁中停留場附近」(昭和3年/道路上に軌道がないため杁中新道と思われる、左側は隼人池か?)
 
現在の地下鉄「いりなか駅」周辺では、広路耕地整理事業や南山耕地整理事業が施工されました。「南山耕地整理組合」は、大正15年1月21日に南山寮で設立総会が開催され、本格的な土地区画整理事業が開始されます。これにより現在の国道153号線(飯田街道)のいりなか駅の南側一帯(現在の南山中学の周辺)で道路整備が図られ、その際に、現在のいりなか駅周辺の飯田街道南側に直線で道幅十三間半(約24㍍)の新道(約400㍍)が開削されます。おかげで、飯田街道の北側に旧道がわずかに残されるという形となり、今でも当時の街道の雰囲気を感じ取ることが出来ます。
△直進が新道で、右が旧道(尾張電気軌道は赤線のように旧道を走った)
 
南山耕地整理事業に関する昭和3年の余剰地売出広告が残されています。
■八事南山耕地整理組合地区の概要
◎位置/風光秀麗なる八事山丘陵南山一帯の景勝地に位置し、而かも八事連坦中、市街に最も近接し、且つ交通至便なるを以て八事山中優越なる地位を占める。
◎地勢/丘陵起伏風光頗る明媚。眞に天然公園と云うを得るべく尚且つ当地區の誇りなり。樹木繁茂して幽邃閑雅(ゆうすいかんが)に仙境にあるが如し。今や天然の美に人工の粋を加へ、理想的林間住宅地として他に多く其の比を見ず。
◎交通/地區の北端に八事電車あり。約二十分にして千早、今池の市電に連絡す。又、十銭バスあり。八事矢場間の運転をなす。地區の中央、八間道路には八事より、滝子、公園に至る十銭バスあり。加之(かの)市電藤成線 桜山より山崎川に至る間の延長を見れば、其の至便云うに俟(ま)たず。蓋(けだ)し当地區将来の発展は思ひ半ばに過ぐるものあらん。
△南山耕地整理組合 売出し広告「新装なれる幹線通り」(昭和3年の山手グリーンロード)
△現在の山手グリーンロード
 
最後に、南山耕地整理組合事業報告書(昭和7年刊)を紹介しましょう。
■整理施行前は地區大部分を占める山林の中に僅かに点在せる農村宅地と新開畑の散在する、その間に蜿蜒(えんえん)と迂曲したる数条の小道路あるのみなりしが、工事完成後は道・水路の完備。区割の整正により交通至便。排水また遺憾なく完成され、農耕地としては灌漑排水の至便により少なからず其の収益を増加せり。
■又、隣接組合も追々完成され道路の連絡もなり、地區の西南端石川橋までは既に市営バスの開発を見。尚、水道瓦斯等の施設も近く実現の運びに至り、急激なる名古屋市の発展に伴ひ人家の建設は日に増加し、地區の一部に於いては将に整然たる林間住宅を形成するに至れり。
■尚、組合に於いては記念事業として地區全般に亘り電燈線の配線をなし、各道路の交叉には街燈を点じたり。」と報告しています。
 
この南山、八事、阿由知の各耕地整理事業に併せて、八事交差点から石川橋交差点へ至る道路の拡幅が行われました。この道は鶴舞公園〜滝子〜八事間バスが走る道路で「十銭バス」と呼ばれていました。南山耕地整理組合余剰地売出広告(昭和3年刊)には、ここを走るバスの姿が写し出されています。十銭バスの写真や杁中電停の写真をみると、八事一帯は松林に覆われた丘陵地帯で、全く人家が見当たらないことが分かります。こうして「尾張電気軌道」の開通と耕地整理事業とのセットにより、一挙に宅地開発が始まったということです。
△「昭和区の今昔」看板 昭和37年頃の隼人池
 
 
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