いわゆる尾張電気軌道「霊柩電車」について、『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

■(霊柩電車の)一般用としては、1915年(大正4年)に名古屋市に市営の共同墓地と火葬場(八事霊園)が建設されたことに伴い、尾張電気軌道(名古屋市電の前身の一つ)が墓地に線路を引き込み、既存の電車(9号とされるが、4号とする説もあり)を改造して霊柩電車を製作している。前述の轜車をプロトタイプとして製造されたと伝えられる。

■この霊柩電車は、車体の中央部に棺を出し入れする幅1800mmの扉を設置し、会葬者とともに墓地まで運んだという。この霊柩電車は1935年(昭和10年)頃まで使用されたが、1931年(昭和6年)までとする説もある。

とあります。

 

一方、大正12年刊の「尾張国愛知郡誌」には、「尾張電気軌道」の開通時期について、整理されて次のように記されています。

■尾張電気軌道株式会社 八事線 開通期

  ・千早~興正寺前間/明治45年4月21日

  ・大久手~今池間 /明治45年5月25日

  ・興正寺前~八事間/大正元年9月19日

  ・八事~東八事間 /大正4年5月23日

とあります。

 

また〔新愛知新聞 大正4年5月19日号〕においては、以下のような渾身のレポートが掲載されています(当ブログにて掲載済み)

〔新たに出来た火葬場/ハイカラ造りの鳥部山〕

■名古屋の鳥部山である八事共同墓地内には、今度、市営の火葬場が新築された。多分、6月1日から一般に遺骸を焼く事になるだろう。位置は墓地内の東北隅奈落の様な谷底に地を劃する事三百坪、中央に七十坪の上屋があって、其内に耐火煉瓦で畳まれた焼却炉が…(生々しい内部の描写が続くので中略)

尾張電車でも墓地の為め、九號の電車を改造して葬儀電車と命名し、近い内に実地運転する由、十二人乗りで両側中央に観音開きの扉がある。車掌台の下で鳴る鈴は無常の鐘の音がするであらう。

 △八事土地区画整理組合 地区全図 昭和7年

△八事土地区画整理組合 八事〜東八事
 

ということで、この尾張電気軌道の霊柩電車に関し、多くの方が探求されていますが、今回古書市場において、『八事土地区画整理組合 地区全図』を発見・救出しました。発行年月は昭和7年9月となっています。「八事土地区画整理組合」からは地図が種々発行されていますが、この昭和7年版には「東八事線(墓地線)」がはっきりと書き込まれていました。

 

東八事線(墓地線)のルートについては、個人的にあまり詳細を承知していませんでしたが、いろいろと調べていくと、大きな疑問に突き当たります。

△尾張電気軌道 東八事線入口(左手)
 

飯田街道の興正寺前を過ぎて、八事交差点手前から左手に入っていく小道が東八事線(墓地線)の廃線跡ですが、この東八事線の廃線跡を辿っていくと、現在はすぐに山手グリーンロードにT字形で突き当たります。

△突き当りが八事郵便局(手前を横切るのが山手グリーンロード)

 

T字路の先には名古屋八事郵便局が建っていて、以前から個人的に、

①郵便局が建っているのにどういうルートで東八事線は八事霊園まで伸びていたのか? 

②郵便局の奥は少し高台になっていて、この崖を八事電車はどうやって駆け上がっていたのか?

と疑問に思っていましたところ、この昭和7年版の八事土地区画整理組合 全図をみると、郵便局の辺りで大きく右にカーブし、元の飯田街道に戻るようなルートとなっています。


そこですぐに現場確認してきました。地下鉄八事駅6番出口を出て、名城大学方面へ向かったすぐの建物が最近取り壊されて駐車場となって広々となり、奥まで見通すことが出来るようになりました。

△地下鉄八事駅の6番出口

△白い建物の奥側が八事郵便局(郵便局裏手から続く崖沿いに東八事線が走っていた)
 
駐車場入口から観察すると、郵便局の裏手側から駐車場に向かって崖が続いていて、つまりはこの崖下を尾張電気軌道がなめるように、少し現在の飯田街道側に振るような形で八事霊園まで走っていたことが分かります。この新しい駐車場は東八事線(墓地線)の廃線跡ということでした。
△新たに出現した東八事線の廃線跡
 

なお、地図をよく見ると、八事停留所には電車の行き違いをする「列車交換施設」が設けられていることが分かります。鉄道の単線区間において停車場や停留所を用いて電車同士が行き違いするための場所です。交換施設は単線の途中において部分的に2線以上設けて列車交換を行う場であり、列車交換設備、離合設備などとも呼ぶそうです。

 

この『八事土地区画整理組合 地区全図』は他にいろんな情報がまだまだ詰まっているようなので、今後も地図を頼りに探訪していきます。

 

*無断転載・複製を禁ず