本日、八事天道町内に鎮座する「五社宮」の秋の「例大祭」でした。雨模様ではありましたが、氏子さんや学区の各町内会など多くの人達によって祭事や獅子舞、神輿等が繰り出されました。
そんな中、社殿前に置かれていたのが、たくさんの郷土玩具「八事の蝶々」。驚きました。
△五社宮 令和5年秋の例大祭
△社殿前に整列した獅子頭たち
 
郷土玩具「八事の蝶々」は、明治維新によって禄を失った尾張藩士が八事地区に入植して開拓していく中で誕生した特産品であったそうです。
興正寺の周りは旧尾張藩の領地で、尾張藩士たちはこれらを譲り受け開墾を始めますが、多くは山林でありすぐに収穫できる状態ではなかったようで、そんな中で、手内職として始めたのが「八事の蝶々」づくり。最初に考えたのが前田氏と飯島氏の二人であったと云います。この竹ひごと紙でできた蝶々は、「尾張電気軌道」に乗って訪れる行楽客に飛ぶように売れ、つくる者もだんだんと増えていき、八事石坂付近の7〜8軒の農家により冬の農閑期に大量つくられます。(続・八事・杁中歴史散歩より)
△五社宮の社殿前に並べられた「八事の蝶々」たち
 
春、山ツツジが咲く頃、山遊び(花見、宴会)のため八事山を訪れた名古屋人行楽客向けに、興正寺門前や八事遊園地などで売られていたのだそうです。
 
そうそう、そういえば、鶴舞図書館に所蔵されている、かつて八事小学校が発行した教科書副読本の中に興味深い記述があるのを思い出しました。
[馬車鉄道]明治の終わり頃になって、のどかで静かなこの辺りにも、やっと文明開化の波がおし寄せてきました。明治40年8月に、千種中道(今の吹上ホール辺り)から飯田街道を通って、八事の興正寺前まで約3.5㌔を馬車鉄道が走るようになったのです。線路の上を馬が電車を引っ張りながら進んでいきます。一区で一銭、片道七銭でした。この馬車鉄道ができて、興正寺参りの客が一層増えました。また、八事に住む人々も、馬車鉄道に乗って名古屋の町に出かけるようになりました。馬車鉄道は、三年ほど走った後、やがて、姿を消していきました。
[八事電車]明治45年4月に走り始めた「尾張電気軌道」は、八事電車と呼ばれました。馬に頼っていた動力を電気に変えたのです。電車は全部で十二両あり、千早から大久手を通って、東八事まで走っていました。吹上・大久手の町を過ぎると、急に広々とした田畑が開け、遠くには八事の丘陵が続くのが見えて、とてものどかな景色でした。お花見や紅葉狩り、千灯供養のときにはとても賑わいました。あるお年寄りの話です。「私が小さい頃は、春になると八事の山へ行く客をいっぱい乗せた八事電車が走っていくのをよく見たものです。帰りには、窓から『八事名物の蝶々』や『山ツツジ』をかざした人々が乗って通るのを遊ぶのも忘れて見送りましたよ。」
 
いいですねー!!! 電車に乗って窓から顔を出す酔っぱらいと、手を振って見送る子供達の情景が目に浮かびますね。
 
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