とうとう「尾張電気軌道」が飯田街道(国道153号)の上を進行する姿をみつけました。

 

掲載されていたのは、大正2年11月に発刊された「名古屋案内」(Noted Sights of Nagoya)という小冊子で、当時の名古屋市役所が編集・印刷・発行したものです。中身を拝見すると、日本語と英語が併記されていて、「非売品」と明記されていることから、海外向けに名古屋市を紹介するため配布されたものと推察されます。内容としては、名古屋市内の公的機関・産業・工場・交通機関・インフラ状況・観光地などが掲載されています。

 

以下、「名古屋案内」の冒頭挨拶文です。

■我が市、両京の間に在りて東海の要区に位し、其の殷賑繁華  年を遂て加はる。況んや(いわんや)輓近(ばんきん=最近)東海関西両鉄路の外、中央北陸二線の貫通を見るに至り、交通の利便悉々(ことごと)開け、遠近の人を吸収すること宛も(あたかも)磁石の鉄針に於けるが如し。…(中略)…

■本帖収むる所の写真書一百五十余種  祠廟城砦の崇高蒼白なる庁舎店舗   宏壮華麗なる。加ふるに近郊山水の明媚(めいび)を以てす。遠近の賓客幸い訪尋に吝(おし)むなくんは庶幾くは其の考察の一資料を為すに足るものあらん。但た内容廣濶にして景物  亦繁多を極め、一小冊子の能く其詳を悉(つく)す所に非ざるを憾と為すのみ。

大正二年十一月 名古屋市長・阪本釤

△「名古屋案内 八事編」(大正2年刊 *誤植一部修正

△現在も当時の門が残る八勝館
 

「尾張電気軌道」を紹介しているページには、飯田街道上をゆっくり走る ①八事電車、②興正寺五重塔、③八勝館 の3枚の写真が続けて掲載されており、それぞれに説明書も付いています。

 

「尾張電気鉄道株式会社」(注釈:尾張電気軌道の誤り)—明治三十九年創業の馬車鉄道を改めて電気鉄道と為したるものなり。資本金三拾六萬円。市内千早町より東郊八事山に向ふ本線は中途、大久手より名古屋電気鉄道覚王山線今池に接続する分岐線とを合せ、三哩(注:マイル)五十九鎖(注:チェーン)。市の東郊開発 殊に四時(しじ=四季)遊山者の為に便利を與ふ(あたう)。

 

「八事山興正寺」—名古屋の東一里余。愛知郡広路村に属す。元禄年中の建立なり。真言宗にして尾張高野の称あり。本尊大日如来の座像高一丈二尺。付近に勝地多し。市人の遊屐(ゆうげき=出歩く)常に絶えず、尾張電気鉄道の便あり。(注:尾張電気軌道の誤り)

 

「八勝館」—市の東郊八事山付近に在り。明治十九年の創立にして旅館料理店を兼営す。客室大小三十有余。構造善美を盡(つく)す外に瀟洒たる亭樹あり。庭園一萬二千余坪。丘陵渓谷に沿ひ、十有余の四阿亭を配置し、遊宴登覧に供す。風花雪月 皆佳ならざるなし。

 

この小冊子の写真は、飯田街道をゆっくり走る尾張電気軌道の姿ですが、以前掲載した「回数乗車券」の表紙の写真と同じものでした。今回の方はだいぶクリアな画像です。

 

さて、八事丘陵は当時、川名から八事にかけて松林が続き、さらに飯田街道沿いには尾張藩によって松並木が整備されていました。上の写真にも八事電車とともに松並木が写し出されています。

 
△八勝館前に残る松並木(左3本が松、右端は楠)
 

そこで、当時の松並木を探してみましたが、なんと八勝館の門が残る入口付近に写真と同じような松の木数本を見つけました。飯田街道の松並木の残りでしょうか。どうでしょうか。雰囲気残ってますかね。

 

無断転載・複製を禁ず