開業時から業績が振るわなかった「尾張電気軌道株式会社」は、三河地方と尾張地方を結ぶ鉄道開通(挙母[現豊田市]~八事間)を目論んでいた「三河鉄道」の傘下に入り、「新三河鉄道株式会社」として昭和4年6月1日に再スタートを切ります。この「八事電車」を引き継いだ新三河鉄道株式会社の「昭和11年度上期事業報告書」が手元に在りますが、それをもとに、当時の八事電車の営業状況や八事周辺の様子を読み取ってみます。

 

△記念スタンプ「新三河鉄道」(昭和初期)

 

まず営業概況を引用すると、「前期に引き続きスピード時代に副く(沿う)べく自動車に主力を注ぎ、その車輌の購入十輌を数へ、矢場・呼続間バス増車運転開始と相俟ち対期的増収時代に入るべく努力せしも、本年は数十年来稀有の大雪と春季遊覧の好季節に於いて天候に恵まれず。尚、塩釜神社大祭も社殿改築のため取止めとなりし等、支障の続出にて当初の豫期に反したるは遺憾とするものなり。」

「然れども、沿線土地整理の進捗に伴ふ住宅の非常なる激増は、当電車・バス定期利用者の顕著な増加となり。又、期央後、認可成りたる名古屋・岡崎直通バス運輸開始と相俟って、将来の成績期して俟(ま)つべきものありとす。」

 

△新三河鉄道株式会社 第18回事業報告書(昭和11年度上期)

 

また決算状況においては、新三河鉄道の昭和11年度の電車部門の輸送人員は255万人、軌道収入は81千円となっており、単純に割ってみると、一人当たりの客単価は約三銭となります。

 

一方、大正14年度の尾張電気軌道の決算が分かっていますが、電車部門の輸送人員は191万人、軌道収入は113千円となっています。新三河鉄道では輸送人員は約三割増加しているものの、運輸収入は約三割減少しています。尾張電気軌道時代は、一人当たりの客単価は約六銭となりますので、事業譲渡後に電車賃の値下げをしたり、定期利用者が増えて割引率が拡大したということが分かります。

 

このため、新三河鉄道は、営業概況にもあるようにバス事業の拡大を図っていきました。昭和11年度の新三河鉄道の決算では自動車収入(バス部門)は135千円となっており、路面電車より早く走るバス事業収入が軌道事業収入を上回っていることがわかります。当時の八事電車はゆっくりゆっくりと八事の山を走っていたと想像できます。

 

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