△絵葉書 名古屋広路町 香積院・般若臺(尾張電気軌道沿線名所シリーズ)
 
△味岡山香積院(名古屋市昭和区川名山町115)
 
絵葉書内に〔杁中停留所北二丁〕とあるのが「味岡山香積院」です。「尾張電気軌道沿線名所」シリーズの1枚で、ひとつの絵葉書の中に香積院と般若臺が収められています。
 
昭和区役所のホームページによると、香積院について「貞享4年(1687)、名古屋の商人・味岡次郎九郎が早死にした一人娘の菩提を弔うために、現在の寺地を寄付したことに始まる曹洞宗のお寺で、開山は寂元光照大和尚です。本堂の前には入口が丸い特徴的な形の丸門があり、寺宝として曹洞宗の開祖・道元禅師の真筆「一葉観音画像」があります。観音堂には、これを基に仏師・西村公朝が刻んだ「一葉観音像」がお祀りされているほか、西村公朝が監修した天井画も描かれています。観音堂の隣には視覚障害の方が手を触れて拝むことができる「ふれあい観音」が祀られています。」
 
△香積院 ふれあい観音
 
さらに般若臺については、「香積院別院。四世住職・雲臥元淳大和尚が、宝暦12年(1762)、禅庵をつくり隠棲したのが始まりです。雲臥大和尚は中興開山と称えられる名僧で、香積院に伝わる『大般若波羅密多経』600巻は雲臥大和尚の書写によります。往時の般若臺は、江戸時代に刊行された『尾張名所図会』に登場する名勝でした。尾張文人画の祖とされる丹羽嘉言(にわかげん)が雲臥大和尚を慕い般若臺に隠棲するなど、当時の尾張を代表する文人・学者が集まる一種の文化サロンであったと伝えられています。」とのこと。
 
 
さてこの電停「杁中」ですが、明治45年の尾張電気軌道の開業時には、「招魂社下」という名称でしたが、いつの頃からか電停名が「杁中」に変わっています。〔杁〕とは、「雨水を池にためて必要に応じて農地に流すための水門が各地にあった。 その取り入れ口を愛知県の方言で「いり」「いる」といい、それに漢字が当てられた。 木製なので木偏に入と書いた」そうです。
 
電停がどこに置かれていたのか定かではありませんが、現在、尾張電気軌道の軌道の直下を地下鉄鶴舞線が走っており、「いりなか駅」が設けられていますので、この駅周辺ということになります。
そこで、「招魂社下」という名前から推測すると、招魂社が少し高いところにあり、そこから下ったあたりが、当然、招魂社下というこになります。招魂社は現在の聖霊病院の敷地内西奥にあり、その後、名古屋城の近くに移されて、愛知県護国神社となっています。
△旧道(左手)への入り口
 
安田通から飯田街道(国道153号)に向かい、昭和消防署八事出張所を過ぎて左に入っていく道がありますが、これが旧飯田街道です。そのまま旧道沿いに進むと降車専用のバス停があり、左手の丘の上へ登って行く小さな石段がありますが、ここが招魂社下ではないかと睨んでいます。
△市バス 杁中降車専用バス停
 
招魂社については後ほど詳細をご報告したいと思いますが、戊辰戦争時の尾張藩戦没者を慰霊した神社で、参詣者はこの電停で下り、この小さな石段を登って(当時はこの細道しかなかった)招魂社へ向かったのではと推定できます。
 
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