△絵葉書 名古屋広路町 元川名「妙見山」(尾張電気軌道沿線名所シリーズ)
 
絵葉書は「尾張電気軌道沿線名所」シリーズの一枚です。「広路」とは、明治11年に名古屋東部郊外にあった川名村、伊勝村、藤成新田(現・藤成通)、石仏村、五軒家などが合併して出来た「広路村」に由来します。この地名は県令(知事)の安場保和が当時広い道であった飯田街道が通っていることから、「広路」と名付けました。
広路村は明治39年に御器所村へ編入されますが、昭和12年に至って御器所村が名古屋市の区制へと移行する際に、区名に関し旧広路村と旧御器所村の住民が対立し、最後は無難にどこでもあるような「昭和区」に決着したという逸話が残されています。あぁ古い地名を残して欲しい>⁠.⁠<
△妙見山浄昇寺(名古屋市昭和区妙見町110)
 
 さて絵葉書にある妙見山とは、昭和区妙見町にある「妙見山浄昇寺」です。天保年間に、川名村の住人・鈴木文七が眼病を患い失明したのを機に日蓮宗の信者となり、八事の奥にあった滝で水行祈願を行ったところ眼が見えるようになったため、夢枕に立った僧のお告げに従い、大阪・摂津国能勢の妙見大菩薩を八事の地へ分霊し創建したお寺です。
ここは「川名の妙見さん」とか「妙見堂」とか「妙見宮」とか呼ばれ、戦前、目の病気の参詣客で賑わいました。日蓮宗のお寺ですが、「妙見宮」と記された石柱や石鳥居があり、神仏習合の姿が残っているそうです。
 
我が「尾張電気軌道」は、起点・千早電停を出て一旦今池方面に向かい、その後、尾張電気軌道自ら開削した安田通を東進して、川名集落の先で飯田街道と合流します。その合流地点にあったのが、電停「妙見口」です。現在の山中交差点です。
△市バス「山中バス停」
 
この妙見口の名はのちに「山中」へと改称されます。ここでは妙見山への参詣客が多く利用したそうです。現在、「山中交差点」近くに「香積院」の看板が見えてきますが、ここに電停があり、ここから左手へ昇っていくのが「香積院および妙見山参道」でした。
△山中交差点から八事方面を望む
 
ここには「妙見山」の石灯篭があったそうですが、現在はお寺の前に移されているそうです。このまま参道を昇って行き中京高や香積院総門を通り過ぎて「滝川町交差点」にぶつかりますが、この辺りは名の通り川が流れる谷あい地で大正期まで溜池と棚田が段々に続いていました。ここで参道は左へ折れて、再び丘の頂上を目指します。そして八事日赤病院の右手に「妙見山浄昇寺」の森がようやく見えてきますが、実際歩いてみますと約2kmと当時はかなり厳しい道のりであったと思います。
△妙見山前の石灯篭(電停妙見口にあった?)
 
戦国時代、摂津国能勢郷を領していたのは能勢頼幸・頼次父子。能勢地方は隣接していたキリシタン大名の高山右近の影響もあってキリスト教徒が多く、キリスト教禁止に伴い、頼次は能勢の神社仏閣を日蓮宗へ改宗させます。妙見山に見られる寺紋は、能勢氏の「切り竹矢筈十字紋」に由来していますが、能勢氏自身もキリシタンであったと云われています。
△確かに境内に、十文字のマーク(絵葉書の中にも十文字が見える)
 
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