△絵葉書 名古屋広路町 奥山半僧坊別院 遠景 開運厄除祈願所(尾張電気軌道沿線名所シリーズ)
 
この絵葉書も「尾張電気軌道沿線名所シリーズ」の一枚です。絵葉書のクレジットにある「奥山半僧坊別院」とは、昭和区広路町松風園にある「半僧坊新福寺」です。このお寺は、明治18年に名古屋中心部の南大津町に建立され、明治43年に現在地へ移ってきました。
 
「奥山半僧坊」とは静岡県浜松市浜北区引佐町奥山にある臨済宗方広寺派の大本山のことで、その名古屋別院ということです。方広寺は南北朝時代の1371年、無文元選禅師により、当地を治めていた豪族・奥山六郎次郎朝藤の招きで、浜名湖の最奥部に開山されました。 元選禅師は、かつて訪れたことがある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、方広寺と名付けました。
 
半増坊の名の由来は、『開祖・無文元選禅師が中国より船に乗船して帰国の折、東シナ海において台風に遭遇されました。……大きく揺れる船のなかで、禅師は一心に観音経をおよみになっておられました。そこに法衣を着て袈裟をまとった、鼻の高い一人の異人が現れて、「わたしは禅師が正法を伝え弘められるために、無事に故国に送り申します」と叫び、船頭を指揮し、水夫を励まして無事に嵐の海を渡って博多の港に導いたのでした。そして、ここでお姿を消されたといわれます。 禅師がこの方広寺を開かれたとき、再びその一異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出ました。弟子になることを許され、禅師の身の回りにお仕えしながら修行に励んでおりましたが、禅師が亡くなられた後、「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」といって姿を消したのでした。以来、この方広寺を護る鎮守さまとして祀られてきました』、との由来書きが方広寺のホームページにあります。さらに調べると、『禅師につき従った男が、薪採りや水汲み、食事の仕度をしていたので、「飯僧」と呼ばれ、のちに「半僧坊」と呼ばれるようになった』 という。この故事が有名になり、海上安全、火災消除、良縁成就には大いにご利益があると参詣者が絶えなかったということです。
△半僧坊新福寺(名古屋市昭和区広路町松風園68)
 
「半僧坊新福寺」は、ここも、明治から大正期にかけて名古屋からの参詣者で大いににぎわったそうです。「尾張電気軌道」(通称・八事電車)を名古屋方面から乗ると、安田通を過ぎ、「妙見口」、「招魂社下」、「池ノ端」と続き、その次に「半僧坊前」という電停がありました。この名前は現在、名古屋市バスの停留場に引き継がれています。
△バス停 半僧坊前
 
尾張電気軌道が走っていた「飯田街道」は、名古屋城下と岡崎城下とを結ぶ重要な往還で、徳川幕府の命により松並木が整備され、一里ごとに一里塚が設けられましたが、なんと昭和30年頃まで、この電停「半僧坊前」北側には一里塚が残っていたそうで、松並木もわずか12本残っていたようです。
さて、電停「半僧坊前」は今の半僧坊交差点辺りにありましたが、「半僧坊」が電停「半僧坊前」や「半僧坊交差点」のすぐ近くにある訳でなく、電車を降りた参詣客は、交差点から南側の丘に向かって昇っていくことになります。冒頭の絵葉書では池の向うの丘の上に半僧坊の屋根がみえますが、あそこまで登っていく訳です。この由緒あるバス停の名前をいつまでも残してもらいたいと思いました。
 
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