「尾張電気軌道株式会社」は、明治43年10月に実業家・江口理三郎によって設立されました。「名古屋百人物評論」(大正4年刊)などによると、江口理三郎氏は愛知県丹羽郡力長村(現江南市)に生まれ、32歳で名古屋へ出て「半襟」に目をつけ、名古屋で唯一の「半襟卸商」として「江口商店」という店名で商売を拡大させていきます。

さらに理三郎氏に好機が訪れたのは明治40年。日露戦争(明治37-38年)での戦時物資の生産増による好景気の影響で、明治39年には名古屋の株式相場は高騰、「当所株」と呼ばれ、投機の対象となった証券取引所の自所株式の売買で成功します。
△石版版画「名古屋名所/東陽館乃図」(明治33年刊)

江口理三郎氏は半襟卸商の傍ら、不動産業・デベロッパー業にも手を拡げ、のちに「尾張電気軌道」を拓く、畑や松林が続く名古屋市八事丘陵に目を付けます。
「名古屋百人物評論」によると、『山田才吉等と相携へて東陽通を開発し、株式会社東陽館を設立したる』とあります。山田才吉は、岐阜出身の料理人でいまや名古屋名物となった守口漬の考案者として広く知られています。一方で、料理旅館を核とした大衆レジャー施設を次々と建設していきます。才吉氏が最初に手掛けたのが明治30年に開業した料理旅館「東陽館」です。池や橋や山を配置した庭園内に、舟を浮かべ、茶店やあずま屋を設け、396畳の大広間を持つ巨大な桧皮葺きの本館は壮麗でありながら「一流の料亭の味を庶民に」をコンセプトに料理を提供したため大変に人気を呼びました。
△空港線に面した東陽通の入口

山田才吉氏たちがこの東陽館を建設するきっかけとなったのは、「東陽通」の開削事業でした。「不屈の男~山田才吉」によると、才吉氏は明治19年、勝間田県令(知事)から直接、南鍛冶屋町から千種村に至る総延長千六百間(2,900㍍)、幅四間(7.22㍍)の道路開削を依頼されます。才吉氏は理三郎氏らとともに用地交渉を始め、ようやく明治26年に着工、翌27年に現在の若宮大通の一本北に位置する「東陽通」が私道として開通します。こののち、同通は南鍛冶屋町(矢場町駅)から千種村(千早小学校)までの2,900㍍に亘り、日用品を売る店が建ち並び、たいへんに栄えました。
△東陽通商店街のアーチと名古屋高速

才吉氏が名古屋商業会議所の仲間であった理三郎氏とタッグを組み、新道開削と商店街分譲をセットとした都市開発を行って、東陽通沿いに東陽館を建設したことに驚きを覚えます。
明治43年の「名古屋人名録」によると、江口理三郎氏が就いている役職は、「株式会社東陽館取締役」、「名古屋電氣鐵道株式会社監査役」、「名古屋商業会議所議員」、「江口商店」とあります。東陽館の役員とともに、名古屋電氣鐵道株式会社の監査役も務めていた関係で、のちに自ら鉄道事業に進出した理由が少し見えてきます。
△東陽館跡地に建つ成田山名古屋栄分院

東陽館跡地は、現在、ビル、マンション、成田山新勝寺名古屋栄分院などとなっていますが、「東陽通」だけにその名をとどめています。

「尾張電気軌道」の起点であった「千早停留所」は、この東陽通の東端の先に設置されましたが、こうした事業をきっかけに、東陽通を拠点として鉄道事業を絡めて名古屋市八事丘陵開発を進めていこうと思い付いたと推察されます。ここで出てくる謎が、「なぜ、尾張電気軌道は名古屋栄まで乗り入れなかったのか」(尾張電気軌道七不思議の2つ目)ですが、前回稿「起点・千早」でも記しました通り、行政指導面から官鐵・中央線を超えて名古屋市内に入れなかった尾張電気軌道でした。仮に許可されていたら、または将来許可された場合、理三郎氏は尾張電気軌道を自分が開削した東陽通の上に走らせる予定ではなかったのか。そして、尾張電気軌道の起点を「千早」ではなく、東陽通の西端の「矢場町」にしょうと考えていたのではないでしょうか。いろいろと想像が膨らみますね。

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