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〔2022年06月25日に掲載したもの〕
「尾張電気軌道」の終点は、開業時には「電停・天道」という名称でありました。その後、八事に改称しています。この天道という地名は、天道山高照寺(こうしょうじ)の山号から来ていて、つまりは、八事地区に興正寺と高照寺という二つの「こうしょうじ」があった訳です。
さて、最近たいへん興味深いものを見つけました。「名古屋名所団扇絵」です。現在古書市場に出回っている「名古屋名所団扇絵集」は、昭和52年に愛知県郷土資料刊行会が復刻・復刊したものです。実はこれは2回目の復刻でした。
△「名古屋名所団扇絵 天道山開帳」(右下の池は八事上池で、のちに埋め立てられて八事遊園地となる、左上に高照寺の屋根が見える)

△団扇絵と同じような構図で撮ってみた天道山の森

元々の「名古屋名所団扇絵」は、文政7年(1824)~天保12年(1841)の間に江戸時代の名古屋の絵師・玉僊により描かれたもので、作者は森玉僊(ぎょくせん)と云い、本名は森高雅。狩野派の画法を学び、『尾張名所図会』の挿図など数十枚担当しました。
玉僊が描いた江戸時代の名古屋城下の様子は、今ではすっかり失われてしまった風景であり、名古屋人の年中行事や日々の暮らしを涼しげな団扇(うちわ)の中で伝えています。この団扇絵は、尾張藩主に献上するために作られたものと云われていますが、団扇として市中に出回り、現存するものもあるそうです。

さて昭和9年に、この団扇絵図の一回目の復刻がなされていますが、江戸時代の団扇絵を再版した詳細な事情について、当時解説を担当した尾崎久弥氏が以下のとおり書き残しています。
〔名古屋名所団扇絵集 解説〕
■玉僊の遺作なる「名古屋名所団扇絵集」の計二十二枚が、今度、旧版木に補修を加えて新摺せられた。先人の偉業を復活するとか、郷土史資料にいいとか、そんなお座なりの褒め言葉よりも、此の程度ぐらいの努力は、版木の遺存せられたのを発見した以上、当然の義務である。
■之(此の新摺)を買ふのも当然の義務だともいふべきだが、とにかく機会を攫んで、十二分に鑑賞すべきである。まして此の版木、文政七年より天保十二年までの日付が裏面に記入せられてあるといふ。

とありますので、江戸時代の古い版木が見つかって、昭和9年にその版木を補修して新たに摺られ、さらにこの昭和9年の木版画が昭和52年には再度、高画質印刷によって現代に甦ったということであります。
この二十二枚のなかに、「天道山開帳」という団扇絵が含まれていますが、天道山高照寺の江戸時代の様子が描かれていました。
△天道山高照寺 山門

以下、先の尾崎氏の解説です。
〔第十八図・天道山開帳〕
■今の大名古屋市の東郊、愛知郡天白村八事天道にある。もと神仏混淆の時代なれば、これもその例に洩れず、本来は天道社といひ、社なりしが如し。『尾張名所図会』に「天道社 同村〔八事村〕にあり、天道山高照寺と号し、尼僧これを守る。臨済宗、京都妙心寺末、もと丹羽郡寄木村にありて、延喜神名式に、丹羽郡稲木神社、本国神名帳に従三位稲木天神とある古社なりしを、享保年中、山号寺号を命じ、寛保元年五月二十八日、ここにうつし、なお旧名によりて、寄木の天道と称す。例祭十月十四日十五日。」とある。
■同書同巻編に、「天道山高照寺」の挿絵見通しがある。之によれば、庫裡、玄関、書院、本堂あり、境内には、北に観音堂、南東に籠り堂、鐘楼、中央に拝殿、西南の本堂の南におひのや、その南に池あり、池畔に弁天の小祠などあって昔時の規模を想はしめる。
■『尾張地名考』には、「天道山高照寺 禅宗〔松平君山曰〕 天道宮は、日月星を祀るといふ。按ずるに、浮屠氏、北斗星をもて天道となすともいふ。此の祠、元丹羽郡寄木村より移す。此故に世俗、寄木天道と称すなり。」とある。
■本図、題して「天道山開帳」といふ。高照寺の開帳の意ならんも、いつの頃にか不明。近きあたりの八事山興正寺の開帳も、陰暦二月十五日より四月八日へかけて、折々行はれたらしい。それと同時頃であろうか。図を見るに、初夏の頃、咲けるは躑躅のようである。即ち陰暦三月末または四月初めであろうか。図の左上、山蔭に見ゆるが、無論、天道山高照寺の意味である。

△天道山高照寺 境内

高照寺の例大祭は解説文にもあります旧暦の例祭十月十四日に行われる「天道祭」(おてんとまつり)であり、開帳とはその事かと思っていましたが、どうも違うようです。
そこで「開帳」という言葉を調べてみますと、①開帳は春の季語であり、ふだんは閉じてある厨子 (ずし) の扉を、特定日に限って開き、中の秘仏を一般の人に拝ませること。②寺院等で、特定の日をもうけ普段見せない秘仏を拝観させる事。気候のよい春先に行われる事が多い。
とのことなので、尾崎氏の解説文のとおり、初夏に行われた高照寺のご開帳の様子である事が分かります。もともと八事一帯は江戸のむかしより「山遊び」の名所であったようです。

■昭和31年刊の「天白村誌」によると、「八事天道の高照寺の南門を出た辺り、今は人家建ちこめて天道部落となったが、もと此の辺りの山から八事表山の善光寺(八事善光寺)山一面にかけて躑躅(つつじ)の花が咲く、その頃ともなれば名古屋人が唯一の行楽の地として酒肴を携行し、春興を楽しんだもの」
■明治23年刊の「尾張名所図絵」によると、「天道山は八事村に在り。名古屋市の東方一里ばかり距つ、山上平坦砥の如くにして閑雅高邁の勝地なり、殊に山上より南方を眺望する時は尾三勢志(尾張三河伊勢志摩のこと)の海面と山嶽とを両眸のうちに収むるありて、大いに心情の爽快なるを覚えしむ。之を以て春日の候に至れば、遊山此の山に蒐集し、絃哥山上に沸き、舞踊厚地を動かし頗る賑やかなり」

と記していますので、団扇絵を詳しく見ますと、人々は斜面の平らな場所を見つけてはそこに毛氈を敷き、飲み物や食べ物が並べられ、踊り唄うなどの宴会が開かれています。八事丘陵一帯は、名古屋人の山遊びの地であったようで、天道山高照寺の廻りでは春から初夏にかけ山桜やツツジが咲く頃、高照寺のご開帳に参詣するとともに、酒肴と敷物を携えた人々が花見を楽しんだということです。


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