なぜ人があるグループの盲目的な信奉者となり、
そのグループの問題点に気づくことができ、
なぜ、そこから抜け出すことができたか。
全く別のグループで起こったことについて考えることから得られるものがあると思います。
是非一度ご覧ください。
あれ?どこかのグループと似ている!?と思い当たるところはありませんでしたでしょうか。
個人的にポイントだと思ったところ
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信者たちは信者だと気づいてない
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質問無視・運営放置事件
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サロンオワコン事件
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俺は創造者事件
・信者たちは信者だと気づいてない
神と親しい関係になれる、イエスの弟子たちと同じような愛ある訓練を受けられると思っていたけれど、実際はどうだったでしょうか。
聖書を正しく学ぶことができると思っていたのに、実際はそのグループの教えを聖書に調和しているかどうか関係なく受け入れなければならない状況になってはいないでしょうか。
神から用いられていると主張している人や組織と、切っても切れない関係になってしまっていないでしょうか。
主にある平安はありますか。神から用いられていると主張している人たちからの突然の裁き、その人達の意向にさからってしまうとグループからはじき出されてしまうのではないかという恐れに支配されていませんか。
・質問無視・運営放置事件
疑問に思ったことを素直に質問できる安心な関係を指導者たちと築けていますか?
指導の任にあたっている人たちは疑問に向き合って答えてくれますか。
それとも都合の悪い質問に対しては無視されますか。
創世記18:22-33のエホバとアブラハムのような率直に質問ができる関係でしょうか。
・サロンオワコン事件
私から進んでサロンに入ったので裏切られたというのはおかしいかもしれません。
私自身は「自己責任」だと思ってるんですが、なぜかサロン主催者のイケハヤが「全て自己責任ですから!」と言ってるつぶやきを見たときは、主催者のお前が言うな!という気持ちでした。
壺を騙して売った詐欺師が「あなたの自己責任ですよ!」って言ってるようなものですよ。
そして何よりも信じてお金払って入会したサロンを主催者にオワコン扱いされたのは否定されたような気分になりました。
神に用いられている唯一のグループと主張する人たちから
「○○は真理」
「○○は創造者の約束」
「○年までに終りが来るから家や資産を売って宣教を拡大するのは優れた方法」
と言われて、それを信じきってやってきたのに、ある時突然、
理解の調整・精錬
などと言って、今まで信じてきたものがひっくり返ってしまったことはないでしょうか。
さらに、間違った教えを発表してしまった責任については、
従った側の「自己責任」にされてしまったことはなかったでしょうか。
・俺は創造者事件
「俺はクリエイターだ。常に新しいことに挑戦してるんだ!」
といってるんです。
実際に新しいサービスを利用してるだけで何にも作ってないし、何にも生み出してないんです。
ただ文句言ってるだけなんです。
この件で「お前は何をいっているんだ」状態になり、完全脱会しました。
グループのリーダーの人たちに言行不一致はないでしょうか。
「私たちはイエスから任命された唯一のグループ」
教理の間違いが明らかになる前「聖霊の助けを受けて聖書を正しく理解し、新しい教理を発表してきた」
教理の間違いが明らかになった後「私たちは霊感を受けているわけでも,完全であるわけでもありません。」
○私の感想
このような悲劇が生じてしまったことは本当に残念です。
騙されてしまった人たちは本当に辛かっただろうと思います。
受けた傷が癒やされて、自立と他者との健全な助け合いの関係を築けるようになることを祈っています。
リーダーと信奉者にとって必要だったこと。それは「自分の弱さを受け入れて向き合うこと」だったのではないかと思います。
最近聖書を読んでいて思うことは、本当に強い人間とは、自分の弱さに真摯に向かい合うことが出来る人のではないかと思うのです。
自分の弱さ、どう頑張っても神の基準に達することができない罪深さ。自分の力だけではどうしようもないことを認めざるを得なくなった時に、
「だからイエスの贖いが必要だったんじゃないか」ということに気づく。
イエスは私の罪のために死んでくださった。罪の無い方が罪人とされて死に、呪われた者として死んだのに、墓に葬られた。
そして聖書の預言通りに3日めに復活して、死に対して勝利された。
その方を信頼し、弟子として歩むときに、神の子どもとして訓練を受け、弱さに対する神からの取り扱いを受けて、徐々にきよめられていく。
(ヘブライ 12:7‐11) 7 あなた方が忍耐しているのは鍛練のためです。神は子に対するようにしてあなた方を扱っておられるのです。父親が懲らしめを与えない[子]はいったいどんな子でしょうか。8 すべての者があずかる懲らしめを受けていないとすれば,あなた方は実際には私生児であって,子ではないのです。9 さらに,わたしたちには自分と同じ肉身の父がいて,わたしたちに懲らしめを与えても,わたしたちはこれを常に敬いました。霊的な命の父にはなおのこと服従して生きるべきではないでしょうか。10 [父親]は自分に良いと思えるところにしたがって数日の間わたしたちを懲らしめるのが常でしたが,この方は,ご自分の神聖さにわたしたちがあずかれるようにと,わたしたちの益のためにそうしてくださるのです。11 確かに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず,かえってつらいことに[思えます]。しかし後には,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです。
弱さと向き合うためには、どんなに失敗しても大丈夫な安全な環境が不可欠です。
ペテロも何度も失敗しましたが、イエスの弟子としての身分が取り去られるようなことはありませんでした。
だからイエスの弟子として歩む中で神様からの取り扱いを受けて変えられて、ペテロの手紙を書くほどの変化を遂げることができたのではないでしょうか。