WWの「血を避ける」理由は
血を食べてはならない。レビ記 7:26
肉の魂は血にあるーレビ 17:11
使徒たちも「血を避ける」ように教えていた使徒15:20
血は神聖なものである
それ故、血を取り入れることは聖書の原則に違反している。
だから血を食べることも輸血することもしてはいけない。
ではそこで問題です。
歴代代一 11:15‐19ではダビデは部下が命がけで採取してきた水を飲まずに地面に注ぎ出しました。
それは部下が命を賭けて得た水だったゆえ、血と同じほどの価値があったからです。
*** 塔12 11/15 6ページ 12–13節 「あなたのご意志を行なうことをわたしに教えてください」 ***
12 ダビデは律法の背後にある原則を認識し,それに付き従いたいと願っていました。その点でもわたしたちの見倣うべき手本です。ダビデが渇望を言い表わし,「ベツレヘムの水溜めの水を一杯飲めたらよいのだが」と述べた時に起きた事を考えましょう。3人の部下たちは,当時フィリスティア人に占拠されていた市内に無理に突入し,その水を持ち帰りました。ところが「ダビデはそれを飲もうとはせず,それをエホバに注ぎ出した」のです。なぜでしょうか。こう言っています。「このようなことをするなど,わたしの神に関して,わたしには考えられないことです! わたしはこれらの人々の魂をかけてその血を飲むべきでしょうか。自分の魂をかけて彼らはそれを持って来たのです」。―代一 11:15‐19。
13 ダビデは律法から,血はエホバに対して注ぎ出すべきで食べてはならない,ということを知っていました。さらに,その理由も理解していました。「肉の魂は血にある」ことを知っていたのです。それにしても,持ち帰ったのは血ではなく水でした。なぜ飲もうとしなかったのでしょうか。法的な要求の背後にある原則を認識していたからです。ダビデにとって,その水は3人の血と同じほど貴重でした。ですから,その水を飲むのは考えられないことでした。飲まずに地面に注ぎ出すべきであると結論したのです。―レビ 17:11。申 12:23,24。
この聖書の記述から教えられることは、
「物質の血そのものが問題ではなく、命を賭けて得たかどうかが判断基準の原則になる」
ということになります。
命がけで得た水をダビデは血とみなしたからです。
この原則を考えて記念式で行われることを考えてみるといかがでしょうか?
ぶどう酒は何を象徴していますか。
(マタイ 26:27, 28) 27 また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。
「あなた方はみな,それから飲みなさい。28 これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。
ぶどう酒=イエスの血(命)の象徴
イエスは文字通り命を賭けて私たちの罪のために死んでくださいました。
その血=命の象徴がぶどう酒です。
先ほどのダビデの部下が命を賭けて取ってきた水を血とみなして注ぎ出したのであれば、
イエスの血=命を象徴するぶどう酒も注ぎ出すべきではありませんか?
でも油注がれたと思っている人たちは飲んでおられますよね。
エホバの証人は「血(命)を象徴する物は体に取り入れてはいけない」と教えているのであれば、
イエスの血を象徴するぶどう酒も飲まずに注ぎ出すべきではありませんか?
このあたりのことを油注がれたと思い込んでいる人たちはどのように理解されているのでしょうか?
「それはイエスが飲むように命じているから」だと答えられるかもしれません。
確かに聖書では、その血の象徴であるぶどう酒をイエスご自身が「それから飲みなさい」と弟子たちにむけて命じておられます。
これはどういうことだと思いますか?
血を避けることが真理であるならば、イエスは自分の血を飲むように命じられたのはなぜだと思いますか?
記念式で用いられるぶどう酒はイエスの血=命を象徴しているのですよ。
イエスの血は人間の血や動物の血よりはるかに神聖なのではありませんか。
イエス自ら血の律法を破られたのでしょうか。断じてそのようなことはありません。
ではどう考えますか?
エホバの証人の血の使用に関する解釈の方を考えなおしてみるべきではありませんか?
○次の点について祈りのうちに考えてみましょう。
・献血で採取された血液は、命がけで得られたものでしょうか。
・(コリント第一 6:19) …あなた方の体が,あなた方の内にある聖霊の神殿である…
この聖句はイエスの主の晩さんで言われたこととどのような関係があると思いますか。