こんにちは。Bibako です。



近年、日本人の方々だけでなく、シンガポール人🇸🇬でも、なんらかの発達障害を持つ方々は多くなって来た?てか、発達障害って何よ!って、私は本当に思うのです。




私の持論ですけどね、人間みんな(私も含めて)なんらかの発達障害あるんとちゃうのん?って、私は仕事柄、たくさんの子供達や大人を見て来て、近年は特に、日本人の大人も子供も、実際には、発達障害でなくても、発達障害気味やな!この人、この子って思う事がありますよ。







いやいや、私もですけどね、我が家の中でも、実際に本当の発達障害(ADHDグレー、睡眠障害、パニック障害)を持つ娘(小五のときに専門家に診察済み)、私から見ると夫も、ADHDと睡眠障害は持ってると感じるし、(娘の同じ感じがする…😔)検査してないけど、怪しいですよ、夫も…爆笑爆笑




私と息子は、それぞれ、普通だと思っているんだけど、結構、息子は潔癖症でこだわり強いところも持っているし、私も変なところはこだわり強くて頑固な一面もある…。




なんや、私の家族はみんな同じやん!爆笑爆笑爆笑



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ただ、私も息子も場面場面では、その意志を曲げることや感情のコントロールはできないわけでもないけどね。




でも、私だって、シンガポールの職場では、シンガポール人相手に、自分の感情のコントロールができなくなって、相手を論破ってか、強い英語を使いすぎて、相手(シンガポール人)が何言ってんだか?と引かれたり、◯チガイか?お前っ!的に舌打ちされたり、時には、私があまりにも強い英語の語彙を使う(私は語彙不足でわかっていない)事で、シンガポール人でも、相手の目に涙をチラッと見せられたり、実際に、相手を泣かしてしまったたりした事も、過去にありました。




何年も働いていると、シンガポールの社会の中では、かなり強い日本人になっていきました。びっくり😅😅







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私のもともとの性格は、本当に思っている事や相手に対して嫌な事🤢があっても、ずっと我慢😅😣できるタイプなんですよ。私の辛抱強さには、定評があります。








でもね、自由奔放な夫や娘を見てると、だんだん、自分もその方が楽なんじゃないのか?とか思い始めた時期があり、そこからは、シンガポールの社会の中では、我慢する事は美徳ではない!と悟りました。





また、以前に、娘には、こんな事を言われた事がありました。




マミのように人にいい顔ばかりしていたら、シンガポール🇸🇬だと、人からBully (イジメ)されるよ!シンガポール人はみんな、自分の態度を外では強くみせないと、自分がやられる事わかってるからね。弱そうな人を見ると、自分の力をその人で試してみる事アルアルやで!




こんな事を、言ったのでした。




確かに、そう言われてみると、私は日本人特有の顔では自分の嫌🤢な感情は見せませんし、言葉に出す事もありません。




相手に強く出て来られると、日本人同士であっても、こちらからの言い分があっても、まずは、文句もその場では言わずに、心に溜めてしまう癖もありました。




だから、理不尽な事をシンガポール人ボスに言われても、なんでも、『はい、わかりました』的に、受けてしまったり、何か、職場でトラブルがあると、相手が悪くても先に私が謝り、相手を責めるのではなく、いつも、自分を責めてしまうタイプでした。




私は、もともと、喧嘩や争い事が嫌いなので、自分から、その場を早く終わらせてしまいたい気持ちが大きいからです。特に、シンガポールの社会の中では、こちらが主張すると、エンドレスの争いになり、相手も絶対に引かない事が、他のスタッフ同士の争いを横目で見ていたので、経験上わかっていたからです。




私の場合、あらゆるトラブルの際には、勝ち負けにこだわりはないのです。とにかく、争いは嫌いなので、早くその場から解放されたい気持ちが先に立つのは、今でも同じです。




でも、どんなトラブルでも、相手の怒り💢がかなり強く、強い言葉で私に言われると、私の場合は、相手を恨んだりと言う気持ちや相手に腹が立つと言う感情よりも、自身の心が折れて、悲しくなって泣いてしまうタイプです。




もちろん、私の心の底には、そんな時、相手に対して悔しい気持ちや意地悪な感情はあるのかも?ですが、それを表に出す前に、自分の心の方が折れるのです。




例えば、子供の頃の姉との姉妹喧嘩でも、いつも、姉にやられて泣いていたタイプでした。文句いいたいけど、言えずに言葉を飲み込んで、自分の心の中で、姉に対する悔しい感情も自分の心が折れる事も、自分が泣く事で、それらを発散して、消化していたのかも?でした。だから、泣いたあとは、スッキリしていました。




すると、子供を持つようになると、昔から、娘には、何かで娘と口喧嘩になり、私の感情が昂って、思わず泣いてしまう事があっても、娘は、ケロっとして、『マミは泣きたい人やから、マミの涙は私には意味ない!』と、ズバリと、私のことを見透かして言われる事もありました。







でもね、こんな事が人に言える娘だから、ADHDなんですよ。その証拠です。




ここは、私にはわかっているし、娘のことはずっと理解して、寄り添って、一緒に歩んできたので、何を言われても、娘は私のことが嫌いで言ってるわけではないのです。




それは、充分に承知していても、私は時々、娘の言葉にも傷つくことはありました。






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ところで、実際には、日本人の中には、どれくらいの方々が発達障害をお持ちなのか?と調べてみると、やっぱり、2000年以降に、発達障害という言葉が世間で市民権を得た(周知される)からだと思いますが、年々、その数が右肩上がりにはなっているようです。





たぶん🤔、それ以前は、発達障害という言葉がなかったから、みんながそんな人について、わからなかっただけだと、私は思います。








発達障害って何よ!というと、人とのコミニュケーションが上手くいかない人のことで、その原因は、人の脳の中で、人とのお付き合いを上手くするために備わっているはずの『自分が他人を受け入れる部分』が、生まれつきの脳の中で、欠如してしまっている意味です。




そんな意味なので、その度合いにより、知能障害を併発していなければ、何も生活に支障などないし、そんな方々に対しては、人が苦手な人なんだという他人からの思いやりで、全部解決できるんですよ。と、私は長年、自身の娘と向き合ってきたので、私はそう思います。




一般的にいうと、どこの親御さん達でも、どなたでも、ご自身のお子さんの発達障害を、(誰からであっても)他人から告知・指摘されると、我が子を否定された気持ちになるのは、仕方ないのです。





また、私の娘のように、その値がADHDと決めるには少し値が足りない的に、ほぼほぼ、ADHDやね!という判断基準の意味の『ADHDグレー』というのは、本当の意味で、ADHDのその値が高い方々に比べてみると、1番可哀想😢だと、私は娘を育てている間に思いました。





さらに、知能障害や身体障害の方々は、他人からも認識できるので、案外、当事者やそのご家族の方々から人に言わなくても今の世の中は、日本でもバリアフリー的な思想がありますから、社会の中でそんな方々を見かけたり、同じ職場におられたら、みんなが手を差し伸べてくださる的な風潮は、日本にもあります。





シンガポールはもっとですが。👏👏👍👍




シンガポールでは、知能障害や身体障害を持つ障害者の方々については、政府もかなり手厚いバリアフリー的な社会を実現してると私は感じますし、私が住んでいる、シンガポールのT🌇街のコミュニティを見ても、私はそう思います。




それは、そんな方々を積極的に雇い入れる企業や普通の学校については、政府から、それを支援する意味で、障害者の子供達の受け入れをする普通学校やそんな方々を雇用する企業に対する補助金が、シンガポールの政府から学校や企業にたくさん貰えるので、それを目的?に、企業や学校経営者は知能障害者や身体障害者(職場でそんな方々を受け入れるためには、その障害に於ける程度の規定はあるし、受け入れるための施設の規定もある)を受け入れて、企業(学校)も助かる、そんな方々も職場を確保できる(お金を自力で稼ぐ事ができる)という、バリアフリー的な社会の実現をしているのだと思います。





ところが、発達障害については、あまり、シンガポールでも、社会の中では、偏見として受け取られているかも?と感じます。





例えば、シンガポールの職場や学校でよく聞く言葉は、You are EQ lower!! (あんたは空気読めない!)的に、揶揄されている場合が多く、実際に、日本でも、東大卒なのに、社会で役に立たない、頭ばかり良くても、人とのコミケが悪い人だ!と、揶揄される東大卒の方々も、実際にはおられますよね?





私はこの方々は、ご本人や親御さんがわからないだけで、発達障害なんだと思います。あくまでも、私の主観ですので、間違っているのかも?しれませんが。





でも、これは、私の娘を育てて思った事でした。しかし、私は、発達障害の専門家ではないので、ただの私の意見なので、ご了承ください。




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話し戻して…




シンガポールの社会では、発達障害についての理解は、国民全体でも、まだまだ、少ないと私は感じます。




特に、娘のようなグレーの方々については、やっぱり、社会の中では、変な人扱いになってしまう事があったり、学校では、先生に態度が悪い、素行が悪い生徒として、いつも、色眼鏡で見られていました。




でも、シンガポールの進学校では、勉強や成績重視なので、娘はそこで成績がそこそこよかったので、ずっと、退学にはならずに(退学にできない)、そのことで、歯痒さを感じる先生方々が多くおられて、私にまで、嫌味を直接いった先生もいらっしゃったのです。




ただ、その中でも、個人の気持ちで、娘を理解して導いてくれた先生も1人、セカンダリーのときいらして、チャイニーズ系のシンガポール人の先生でした。




年齢層は当時でも、アラカン世代の女性の先生でした。この先生には、私も娘も大変感謝していました。、この先生のおかげで、娘も嫌な思いも少なく、しっかりと、娘が好きな勉強ができる環境を整えてくださり、セカンダリーを、娘は、他の先生から見ると態度は悪くても、優秀な成績で卒業できました。




現在の娘の場合は、いろいろな経験とともに、自分のことも自分で把握して、ある程度、コントロールできるようにはなりましたが、今でも、人からネガティヴな話を聞くと、自分の事ではなくても、気持ちが下がるという、ADHDの病状のひとつで、誰にでもできそうな、他人と自分をすり替える事ができないので、『人の立場で物を考える事ができない』のです。すると、自分ではどうする事もできず、一時的なパニック障害を発症してしまうのです。




また、睡眠障害は、娘は、一生を通じて、上手く付き合わないといけないのですが、仕事で、上記のような事が起こると、娘の場合は、たちまち、朝が起きられなくなり、身体が言う事が効かないので、頭の中では、いけないとわかっていても、遅刻を繰り返すようになってしまうのです。




現在の仕事は、イベント関係なので、もともとが、定時始まり、定時に帰る…というのが、事務職の人だけで、娘の仕事は事務職ではないので、そこは、上司も大目にみてくれるらしいので、良かったです。本当かな?(娘ということを間に受ける母🤣🤣)




でも、会社からキックアウト(退職勧告)されていない状況なので、たぶん、大丈夫なんだろうと、思っています。




娘のADHDは、娘の場合、頭も良い子ですから、例えば、会議では、娘でも、ディベート的な考え方をしなければ、意見がまとまらない事はわかっています。




ADHDの娘であっても、仕事柄、クライアントの意向には、自分の意見は関係なくそれに沿う提案の変更は、どんな仕事でもあります。そこも、娘は頑張って、相手の意見に沿う努力はしているようです。





しかし、ここでも、娘の場合は、自分が強くそれを意識しなければ、他人の立場については、娘の場合、ADHDなので、普通は考えられないのです。





だから、娘の場合は、自分の仕事が自分の頭から離れてしまうと、会社の中でも、何も自分が抑える事をしなければキレて、一時的に、パニック障害を発症してしまうのです。




それは本人もわかっていて、そんな場合は、お医者さんから処方されている、精神安定剤を前もって服用したりもしますけどね。




社会の中では、娘のようなADHDなグレーの方々への理解は、日本でもないし、シンガポールでもないのですよ。





だって、娘のような場合は、他人からは、全然わからないんですよ。この人がADHDだとは。




娘の場合、自分からADHDだと言わない限り、ただの頑固な人。人の意見を聞かない人…というカテゴリーの人と同じ扱いになるからです。




えっ?待てよ🫷






それって、私がブログ上のトラブルで相手から言われた事やん!爆笑爆笑爆笑

すると、私は、娘と同じく、ADHDのグレーやったんかいな?爆笑チューチュー





Bibako さん、やっぱりあんたも…?親子やね。




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でも、娘と私の完全なる違いは、娘の場合、仕事上のクライアントについては、我慢して、自分が合わせる努力はできても、プライベートな同僚との付き合いで、その同僚がなにげに、娘に自分のネガティヴな状況を話すと、娘はそれが受け入れる事ができずに、時々、自身がパニック障害を起こしてしまう事があるんですよ!




私には、パニック障害は全くないですからね。ADHDではない事は、ここでわかるのです。





パニック障害を持つ方々も、ADHDの方々には、併発する別の病気として、よく見られるらしいですし、もそうらしいです。




鬱も、ADHDのグレーの方々には、大変多く併発する事があるのだそうです。




世間一般には、ただ単に鬱と、言いますが、鬱にもいろいろ原因での発症があるのだそうです。難しいですね、心の病は…。








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一般的に、自分のネガティヴな状況は、人に聞いてもらいたい人(これは多くの方々が同じだと思います)も、女性には多くおられるかも?です。そんな方々は、相手から同じように、その人のネガティヴな状況を聞くと、同情もしますし、共感もできます。愚痴を言い合う友人も必ずお待ちだと思います。




それは、私も同じなんです。自分のネガティヴな思いは、友人と共有すると(友人に話すと)、自分もスッキリしてきますし、反対に、友人のそんな話を聞くのも平気で、同情も共感もします。





私の場合は、それで人とコミケをとり、お互いの嫌な状況を言い合うと、私もスッキリ、相手もスッキリできる事って、普通にアルアルです。




でも、娘も含めて、完全なるADHDの方々は、グレーであっても、その値が高くても、基本的には同じで、『人と自分をすり替える事はできない』つまり、相手の立場と自分立場を入れ替えて物事を考える事はできないのです。





だから、自分は自分、人は人…という理解と割り切りが、私のようにそんな人(発想障害を持つ娘)と寄り添って行くために必要なコミケなんですよ。





私は娘と長年付き合って、寄り添って、一緒に歩んで来て、今があるのでこの意見は、主観であっても、信憑性は高い話だと思っています。




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だからね、今回、発達障害って何よ!って、そんな人達とどうやって付き合っていくのか?って、話です。







私にも娘と同じような事ありますし、自分の感情がコントロールできない事だって、この歳になってもあるんですよ!だから、私も?ADHDなのかな?って思います。爆笑爆笑爆笑




発達障害なんて、いちいち診断しなくても、昔の社会では、そんな人も一時的には、弾かれる事があっても、その中誰かは、その人に寄り添ってくれるので、イジメが存在しても、必ず、イジメの被害者に寄り添う人(他人)はすぐ側にいたんですよ。




人が好きで、人に優しい人は、昔はゴロゴロいたのが、日本であり、それが日本人だったんですよ。




実際に昭和の世界は、そんな人達を、私は、この目でみて過ごしていましたので、間違ってはいないと感じます。




でも、何故?現代になると、発達障害などいう言葉を世間に広めて、理解を求めなければいけなくなったのか?




また、同じように、ハラスメント(パワハラ、モラハラ、セクハラ、カスハラなど全てにおいて)がどんな物なのか?を世間に知らせる必要があったのか?




更には、弱い者イジメでもある、社会的な弱者に対する差別、学校や職場でのイジメ、虐待などは、何故?今の日本の中には当たり前的に存在して、誰もそれを助ける事はしないのか?




世間では、そんな事で人の命が奪われると、なんでも、児童相談所、なんでも行政や学校、職場のせいにして、すぐ側にいる方々は、何もしない?見て見ぬふりをしている的に、未然に防いだり、被害者の方々に寄り添ったり、その加害者に対しては、第三者から、それは間違いだと声をあげて、助けてあげたりもせずに、見過ごしてしまうのは何故なのか?




もっというと、バイトテロから始まった、ふざけた迷惑行為の飲食店ペロペロ事件は、何故?今でもなくならないのか?新たなペロペロ事件、まだまだ出てきてますよね?それは何故なのか?





これらの事をする加害者側が、この方々も居場所がない、また自覚がない発達障害なのか?と、私は感じる事があります。




これは、私の完全なる持論ですが、人と自分の立場をすり替える事が欠けている(ADHD)と、自分さえ楽しければ人の迷惑は考られないのは、それは、娘と同じく、発達障害特有の病状ですよ。





だから、上記のような事をしてしまう、または、よくやってしまう方々(加害者側)は、一度、専門家を受診されて、ご自身の健康な精神があるのか?ないのか?をお調べになられた方が、世間への迷惑にならないので良いのでは?




自覚がない発達障害の方々が1番厄介です。





例えば、その中でも、簡単なわかりやすい例を挙げると、飲食店ペロペロ事件を起こした加害者の親も、こんな世間に迷惑をかける事を我が子が何故?したのか?という事についても、もしかしたら、我が子は発達障害なのでは?という発想にもならず、自分の躾悪さを恥じるだけですよね?しかも、それも、恥じない親までいらっしゃるのですよね?




こんなペロペロ事件を起こす子供をもった親御さん達って、その方々もまともな神経を持っている方々なのか?と、私は疑いたくなります。これも、私の主観ですが…。





するとね、私の結論は、この親御さんも実は、発達障害で、やっぱり、世間の迷惑とご自身のお子さんがした事を、すり替えて考えることは、できないから、我が子を擁護するのかも?です。




親である方々ご自身が、自身の子供が犯した迷惑を、ご自身が被った…として考える事ができないので、こんな迷惑行為をした我が子でも擁護?し、我が子(子供)が可愛いから、可哀想だからと、庇い立てする…でも、その根本は、それ以前の問題では?と、私は思ってしまうのです。




そんな風に考えてると、実際には、日本人が今よく言う『人に寄り添うという意味で、発達障害の認識や理解を求めるのは良しとしてもそれをする人の良識や道徳が違うと、それ以前の問題では?と私は思います。





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つまりね、日本人は特に、人の事を気にしなくなってしまった、または、人の事は気になるのに、余計な口出しはしなくなった…お節介屋さんが少なくなったって、事ではないですか?




それは確かに悪い事ではないと私は思っています。




人の事にいちいち口を出す人は、みんな好きではないです。




でもね、昔の日本の社会(昭和の世界)には、そんな方々が比較的、何処でもいらしたから、発達障害など言う言葉を知らなくても、良かったのかも?と、私は思います。





例えば、昭和の世界では、イジメを見つけたら被害者に寄り添って、加害者に間違えを指摘する同じクラスの子供や大人がいました。





また、例えば、子供が公園で野球などしていると、他に遊んでいる子供もいるので、ボールにあたって危ないので、別の場所に行くように指導してくれる他人の大人もいました。





それから、世間で迷惑な行為を見つけたり、社会のルールに反する事をしている中高生を見つけると(例えば、家の外で、タバコやを吸っている、お酒を飲んでいる未成年者)他人の大人が注意する事も、全然知らない他人からでもありました。





でも、現代の日本人の大人の方々は、例えば、子育て世代の方々が、シンガポールは子供に優しい!日本は全然、優しくない!と、嘆く方々もいらっしゃいます。




私の場合、もう、自分は子育て世代ではないので、公平にその事を、シンガポールと日本で比べると…





日本では、電車の中でも、例えば、靴も脱がす事もなく、電車の窓側に立膝で子供を座らせて外の景色を眺めさせる、吊り革を公園の遊具的に扱って遊ばせている、家では、YouTubeを子供にみせたり、携帯のゲームをさせているのに、電車の中ではさせないので、子供がグスグスいって大声をあげている、何かの理由で大声で泣いている…、こんな光景を見ます。




すると、今の子育て世代の方々は、他人から指摘される嫌で、もし、誰かから指摘を受けると、公共の面前で、自分は恥をかかされた!と言う意味で、逆ギレする親御さんもおられます。または、たったそれだけで、心が折れてしまわれる方々もいらっしゃるかも?です。




そして、人から指摘されるのが嫌だと言う理由で、子供に外でして良い事か?悪い事を教えているのではなく、やめて!としないで!と言うだけで、何故?なのか?というと、迷惑だから!と言うだけです。




すると、子供は迷惑ってなんなのか?かが、わからない、つまり、してはならないことをする🟰迷惑、と言う図式は頭にはないので、訳がわからないのかも?しれません。





こんな事を、お子さんの躾と勘違いしている、親御さんが増えたと、私は感じるのです。




人に迷惑だから…と、子供に言ってる親御さん、私が子供なら、きっと、迷惑って何よ!って、わからないと思うのです。




私の母は、『迷惑』などいう言葉を、私に使って叱った事などなかったです。『これは、したらあかん!』『ここで、こんな事をゆーたらあかん!』と叱って、『なんで?』と私がきくと、『なんでもや!こんな事して(こんな事ゆーて)、誰がええと思うねん?』と、反対に私に聞くので、答えられないので、『やっぱりあかんのか…。』と、変な納得をした記憶があります。



また、私が姉に泣かされて、母が姉を叱るときも、『あんた!(姉)、同じ事を妹(私)からされて、あんた、嬉しいか!自分も嫌やろ?そしたら、したらあかん事わかるやろ!アホっ!』的な事をいって、姉を叱っていました。




だから、昭和の子供達には、家でも学校でも、『自分がされたら嫌な事(言われたら嫌な事)は人にもしてはいけません』この道徳は浸透したし、また、弱い者イジメは絶対にいけない!という道徳も、昭和50年代くらいまでの子供達には、辛うじて、浸透したのかも?ですね。





だから、外での迷惑行為については、昔の日本人(昭和の大人達)の方々は、どうしていたか?知ってますか?




電車の中での子供の迷惑行為は、親に注意しますよ。子供を叱るのではなく、全て親です。




そして、それを指摘された親は、すぐさま対応して、子供に、自分の言う事聞かせるだけの威厳もありました。




子供も親から言われると言う事を、外では、渋々であったとしても、必ず、言う事をすぐにしました。





そんな経験は、今の日本人の大人の方々でも、自分が子供の頃の経験として、多くの方々がお持ちだと思います。




だから、当時の親御さん達は、他人からの指摘であっても、誰にも逆恨みしたりはしませんでした。





そして、これ指摘した人の事を、誰も、余計なお節介をする人という評価にはなりませんでした。そんな社会の暗黙のルールがあったと感じるのです。




シンガポールでは、何故?子供に優しいのか?年寄りに優しい人も多いのか?それは、普通に、弱い者イジメしない道徳が浸透しているだけですよ。また、他人を注意する昭和的な人もまだたくさんいて、それを聞く方も、反論はあっても、指摘については、常識的に考えて、聞く姿勢があるだけだと思います。まるで、日本の昭和なだけですよ?爆笑爆笑爆笑なだけですよ?知らんけど…?




何も深い話でもないと、私は単純に思います。




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でも、私の主観で申し訳ないですが、日本も2000年以降は、大きく社会も変化したと思います。日本の景気もどんどん悪くなり、今でも、歯止めはかかったようには、私は感じません。




すると、だんだん、日本人の心は荒んでしまい、人の事よりも自分の事、人からの悪い指摘は聞きたくない、自分さえ良ければそれで良い…的な考えがだんだんと、日本人の心に浸透していくと、今度は、当たり前のように、社会の中で暗黙の了解的に、みんなが認識していた、人に思いやりを持ち、優しく接して助け合う気持ちや家の中で、して良い事、悪い事の区別や家の外でして良い事、悪い事の区別が、親側が曖昧になってしまい、子供に教える事ができなくなった…




だから、イジメも発達障害に対する理解、また、ハラスメントや迷惑行為、人への誹謗中傷も含めて、を、大きな声で、政府(上の人)から叫ばないと、日本人の大人はわからなくなってしまったのですかね?自身で考えたり、他人と自分の立場を入れ替えて考えて見る的な、今までの日本人が当たり前としてできた事が、今は、できない大人が増えたと言う事ですかね?




なんか、なんかなぁ〜?




現代の日本人は、人のことよりも自分事を優先的にして、自分が1番他人は2番、っていう図式が正当化されて、美徳とされている現実なのかな?だったら、このままでいいのかな?と、思うのは、私だけなんでしょうかね?




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今回も、最後までお付き合いありがとうございました。しかも、いつも、長文!本当に私はいつも、みなさんに感謝しております。




さて、今回のお話どうでしたか?



日本人の方々の発達障害って、結構、政府が把握しているだけでも、多いようです。









でも、こんな方々の事を、わざわざ、世間で理解を求めなければならない社会になった事の方が、私は嘆かわしい日本の現状だと思います。




現代の日本人は道徳学習が足りていないのか?家の外と家の中(内と外)で、して良い事としてはならない事の区別が曖昧になっている大人が増えたのでは?




そうすると、そんな大人に育ててもらった子供はもっと曖昧になりませんか?それを物語るのが、今の日本の社会問題に多くあるのは?と、私は思っています。




日本人なら、親も自分自身も襟を正してもらいたいです。シンガポール人の事は、私はシンガポール人ではないので、知らんけど…。爆笑爆笑爆笑

















それでは、今回もこの辺で。またの投稿をお楽しみに。