こんにちは。Bibako です。



久しぶりにブログを更新します。なんか知らんけど、いろいろ忙しくしていて、よくよく考えて見ると、こうやってブログを更新する時間がある事に感謝しないといけないなぁ〜と、つくづく思うのでした。




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私、この歳になると、家の中では子供の方が偉くなって、どんどん、これから先は子供の言う事を『はい』という良い返事とともに聞かないといけなくなるかな…



職場では、とりあえず、ずっと同じように仕事がある事に感謝して、毎日、働くという事もこれから先はどれくらい続けていけるのかな?という事については、不安ではあるけど、今の状況を有難い事として、日々、自分のベストを尽くしたいと思っています。



とはいっても、あと10年以内に仕事はなくなるかも?ね。すると、少ない年金しか、私には生活するためのお金はないけど、これも、以前のようには、思い煩いはなくなりました。




私が日々の感謝や人の有り難さに気づけたのは、どう考えても、神様のおかげかな?






あとは、日々の感謝や人の感謝については、松下幸之助さんのこの文章かな?






これも、最近はつくづく『せやなぁ〜』って思えるようになりました。




中でも『勝ったらあかん、負けなはれ。』この部分は、私の全ての生活に於いて、人とのコミケは『これやっ!』って思ってますねん。



それからは、謙虚さが大切な事である事も、気がつきました。遅い気づきですが、アラカンにして、やっとわかってきたような気持ちになっています。




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さて、私は2019年の12月に、神様の声で教会に来るように言われました。



それまでは、普通に夫と一緒であると教会に行きましたが、ひとりで行こうなんて思ってもみなかったですし、とりあえず、教会へはいっても自身はたぶん、一生において、洗礼は受ける事はないだろうと思っていたんですよ。




するとね、2020年の2月には、シンガポールにもコロナがやってきて、その年の11月には大好きだったお父さん(今やから言える)が倒れてしまい、結果的には、元気なお父さんを見る事ができたのは、2019年11月に帰国したときが、私の一生の中で最後になりました。



つまりね、私の神様は、2020年からは私に辛い事や悲しい事が山程やって来るから、それに備えなさい!という意味で、教会に来なさいと、私を呼んでくれたような気持ちになりました。




するとね、そこからは不思議な事に、自身の事については、いろいろ奢っていた?自分について、見つめ直す機会がたくさんできて、また、2021年には洗礼も自分から受けて、益々、私の心は強くなり、『謙虚さ』とは何か?『謙虚に生きる』とは、どういう事か?また、辛い事や悲しみを乗り越えていくというのは、どんな事なのか?を、コロナの3年間で、学び続ける事になりました。



そして、2019年の12月に、神様が教会に来るように、私を仕向けてくださった意味が、今、わかるようになりました。







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私は、学校の教師をシンガポールで長くしていますが、最近、私が、フリーランスで行ってる、語学学校で、ある面白い事にがつきました。




それは、人って人の上に立ったり、先生と呼ばれる職に就くと、自分が偉くなった気持ちになるようです。モロに、私の仕事は外の人から『先生』と呼ばれる仕事ですからね、やっぱり、人から敬意を払っていただいてるような気持ちにはなります。




教師以外の職業では、医師や弁護士・政治家も、お寺ではお坊さん、教会では牧師さん、新興宗教団体では教祖さん、芸能や工芸なら師匠(親方)、スポーツなら監督(親方)やコーチやインストラクター、企業なら、役付きの方々や社長や会長など、ここに挙げた位置に該当する方々、あとは社会的地位が高い、皇族や高級国民は、ズバリ『先生』と呼ばれたり、『先生』的な意味合いで、敬意を人から受けてる感じで、ご本人もそう思っていますよね?



すると、やっぱり、こんな職業の方々も、人間なんで、先生と呼ばれると、或いは、それに相当する言葉で、外で自分がそう呼ばれると、どんな人でも、自分が偉くなった気持ちにはなるようです。




ある意味、先生という言葉は、人間の自尊心をくすぐる言葉による、心理的なところかも?です。



そしてそれが長年続くと、知らないうちに、自分が謙虚に生きる事がどう言う事なのか?わからなくなるのかも?しれませんでした。だから、それが当たり前化すると、謙虚さはなくなり、反対に奢りがでてくるのだそうです。












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しかしながら、現在の日本人の大人の不祥事って、こんな方々奢り高ぶって、自分が偉いと勘違いした方々が起こしていると感じませんか?




だから、そんな不祥事を起こした人達が、先生と呼ばれる方々(師匠、親方、皇族、会社の役付きの人など)であると、それに至るまでの経緯においても、いくらその人が間違った事をしていても、周囲の人々は、何も言える状況ではないんでしょうね。ご本人は、自分は絶対権力者だと勘違いしているのだろうと、思います。




こんな方々は、自己評価が高く、自分は偉いから、自分は何をしても許される的に思ってしまうんですよね?



私は、シンガポールに来てからは、教職をしているので、生徒や日本人の周囲の方々からは先生と呼ばれています。ただし、外国人の同僚には、名前で呼ばれるだけですが…爆笑爆笑 




自分の名前に、Miss , Mrs, Ms,Mdmなどの敬称がつく事はあっても、先生などいう、敬称はつきません。



すると、私でも、こんな仕事を長くしていると、やっぱり、自分が謙虚に生きる事を、忘れてしまいがちになっていました。



そんな事が長く続いたのですが、私の場合は、コロナ前から謙虚に生きる事について、少しずつ変化したと感じます。




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ところで、私は大好きな『人間ウォッチング』を語学学校でしていると、日本人のそれぞれ先生達の授業へのプライドと、シンガポール人生徒のプライド、学校のプライド…てか、みんな良い意味でも自分を高く評価して『奢っている』と感じる事があります。




そんな方々には、どこにも謙虚さは無い?てか、特に、日本人は、口で言う事と心の中が違うので、私は日本人だからこそ、そこは、敏感に感じられるのです。良い意味でも、悪い意味でも。









私が感じた、先生の奢りとは、学校のカリキュラムやシラバス重視は良しとしても、なんだか、授業への向上心🟰自分の授業スキルのアップを求めているだけで、クラスに通って来る生徒のニーズに応えていないのでは?と気がつきました。




また、生徒も、シンガポール人生徒に多くいるのですが、自身が日本語を学習した事で、日本語に対する『自信』が出るのはいいのですが、それに対しての本人の『謙虚さ』はなく、同じ生徒同士でも、そこまで日本語がうまくなっていない人を、蔑む的な事をする、性格悪っ!😡という人も目につくのです。




そんなシンガポール人は、日本人に対しては礼儀を守る?的に、日本人(私)からの質問の受け答えとして、口では日本人気質を真似して、謙虚な言葉を言っても、心の中や態度はそうではないのです。それは、私は日本人だから読めるのですよ。相手の本心が…。爆笑爆笑爆笑



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さて、自身が偉い?的に勘違いしてしまう人達についてですが…



語学学校の日本人教師陣の中でも、皆では無いのですが、一般的に、日本人で人を蔑んだり、奢ったりする人の傾向として、自分へのコンプレックスが大きい人、または、自己評価が高い人ほど、とにかく、プライドが高いと感じるのでした。これは、ある心理学者も似たような事を、テレビの番組で言ってたことがあります。



私的には、日本人教師が、自分の仕事に自信を持つのは良しとしても、謙虚さや礼儀は微塵も感じられない授業展開では、日本人としてよく無いだろう?って思います。それを受ける生徒さん達には、日本人の良いところが全く伝わらないと思います。




そんな先生方々の特徴は、仕事でも、プライベートでも、生徒よりも自分優先、人よりも自分優先だからです。




私からみると、そんな性格の人だから、先生業をしていても、個人のパフォーマー的な授業、てか、自分の思い通り(自分の思い込みによる授業)にしかなさっていなくて、生徒とのコミケはあまりよく無いと感じたのでした。



また、幼児のクラスでは、こちらも、ご自身が子供と保護者の前でのパフォーマンスを展開して、それを良しとする幼児や保護者は良しとしても、そうでも無い幼児や保護者もいる事には、何も気にかける様子はなく、いつも自己評価として、ご自身の仕事の自己満足度を高めていらっしゃるのかな?とも感じる事がありました。



しかしながら、それを私がとやかく言うのは違うと感じますし、先生の全てにおいて、良し悪しを判断するのは、私ではなく、やはり、そのクラスの生徒さん達なんだ!ともわかっていますが…。




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私はシンガポールに来てから、働く時に、英語もできない私に何ができるのか?と考えてみると、ありがたい事に、シンガポールでは日本語を使って働けたのですよ。



しかも、私の持っていた資格も使えたので、すんなり、仕事が決まりました。



そこからは、教職ひとつでずっと、自分の生活を支えてきました。



こんな私も、初めは謙虚な態度?で仕事をしていたかも?ですが、1年経ち、2年経ち…気がつけば20年以上のキャリアができました。



すると、やっぱり、仕事への自信から、謙虚さはどんどんなくなっていったような?



私には、50歳を超えてから、日本人の後輩先生と一緒に仕事をするようになったとき、私の奢りはピークだったのかも?でした。



しかも、相手は私よりも20歳前後、歳が離れた30代半のキャリアとしては、中堅の先生でした。




しかしながら、私からみると『あなたがオムツしていた頃、私は既に社会人だった』という自負や教師歴もかなり違うのに、この先生の態度は、私を単なる同僚扱い。タメ口は流石に使わなくても、態度がタメ口でした。



それでも、私は3年くらいは猶予をつけて、ずっと我慢していたのですが、とうとう、それが爆発した事があり、トラブルになりました。



でも、ここが、昔のトラブルと今のトラブルが違うのでした。



昔は先輩、しかも、大先輩から何か苦言を呈されると、後輩は小さくなり、『すみませんでした。』と平謝りするものでした。これは、礼儀のような物で、先輩が正しいとか正しくないは関係なく、先輩から叱られる、注意された事は、一旦は後輩は受け止めるのが当たり前の世の中でした。




私はそんな社会で揉まれながら社会人経験を重ねて、年功序列的に、先輩は敬意を持って接するという常識がありました。




しかしながら、彼女の世界では、そんな事は常識だという概念など全くありませんでした。



この年代の方々(1978年以降、1980年代生まれ)つまり、昭和最後と平成初め生まれの場合、世の中自体が、年功序列など関係なく、年上や年下という社会的な概念がなく、みんな友達?同等?って考えが普通の世界になっていたのかも?でした。




この方だけではなく、礼儀がない方々がボチボチ目立つようなっていきました。



すると、反対にいうと、こんな人達も自分に自信があるし、何も間違いはないという本人なりの確信もある事で、自分は間違っていない、悪くないという主張になるようです。それは、人の奢りであると、私は思うのでした。



すると、こんな考えは、仕事にも反映されていて、その世代から若い先生方々は、仕事は仕事、生徒は生徒、自分は教師であっても自分を大切に…という考えが美徳だという方々なので、授業自体も自分本位な展開を当たり前の如くなさっているのです。




でも、それで良しという生徒や保護者の方々もおられる事は、私にとっては不思議ですが、こんな世代の先生方々には不思議ではないのですね。




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さて、今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。私はいつも、みなさんに感謝しています。




ところで、今回の話、如何ですか?結論的な物は言えないのですが、人間の奢りを捨てて、謙虚になる事って、本当は自分の心の幸せにも繋がるんですよね?



じゃあ、みなを不幸な気持ちにする『人間の奢り』って、何でしょう?




私が思うには、自分でもそうでしたが、奢りと言われても、たぶん、みなさん、自覚する事は難しいんだと思います。私もでした。



でも、やっぱり、少し自己主張をやめて、一歩引いて現状をみる、つまり、冷静になる事が、どんな場合でも大切だと思います。そして、その結果謙虚さが手に入るのではないのでしょうか?



そして、人が謙虚になると、自分の思うようにいかない歯がゆさが、どうしても自分の中で気持ち的な処理ができない時でも、なんとなく、そんな物だと気持ちを落ち着かせる事もできるようです。



実際の生活においては、自分の思い通りにいかない事は多々あり、それが普通のことなんですよね。そう思える事が既に『謙虚に生きる』という事なのだと、私は思いました。







では、今回もこの辺で。また、次回の投稿をお楽しみに。😊