あなたは、とても高い靴を買いました。おそらく1年間貯金をしなくては買えないほどの靴を。
その買ったばかりの靴をはいて散歩にでかけると、
目の前で子供が溺れてしまいました。
靴を履いたまま飛び込めば、靴はダメになってしまっても、子供の命は助けられます。
靴をぬいで飛び込んだらその間に子供は水深く沈み、命は助からないでしょう。
あなたはどうしますか?

おそらく、多くの人は靴を犠牲にして子供を助けるでしょう。
ではもう1つ似たような質問をしてみます。
あなたは、地球の裏側にいる人の命を救うために靴を買うお金を我慢して募金できますか?
地球の裏側にいる子供の命と、目の前にいる子供の命に違いはありますか?


これ、パラドックスとして一般ではとらえられますが、実際にはパラドックスにはならない論証をすることができます。
靴と子供の命という例題より、さらに過酷なパラドックスライクなものをあげてみます。
今あなたが食べているご飯、それの1/3の量のごはんがあればたった今、命を救える飢餓の子供がいるとします。子供が目の前にいればご飯をあげる方が過半数以上の日本人でしょう。

では、地球の裏側で、そのような状況であることが分かっているのに、なぜあなたは帰宅途中にたまたま見かけた飢餓の子供達を救うボランティアにたった300円を渡さなかったのですか?

この方が、よりパラドックスライクでしょう。ですが、これは実際にはパラドックスではありません。
簡潔に書きたいため、理解に飛躍を要するかもしれない点はすみません。
まず、人というもの、社会というものは、自己を中心として、その周りから始めたことを次第に大きくしてゆく手法をとることが生物的な本能としてあります。また、現実に社会においてもその方が他者に対して献身的になれる自分の影響力をより広げやすい順序をたどれます。

2つ目は、目の前の子供を助けることよりも、その子供が溺れてしまわないような、または飢餓にならないような環境整備をすることの方が、さらに大切であります。あなたが見てない所でも、あなたが眠っている間でも、さらにはあなたが死んだ後も、このような環境整備は生きます。目の前の子供を助けることは確かに大事ですが、その後に、子供が溺れないような環境整備の手助けをすることは数十倍、数百倍の命を救うことになります。

そうすると、目の前にいる子供→すぐさまに応急処置として助ける、遠くにいる子供→環境整備や社会インフラ整備に視点をむける。
という観点がみえてきます。

パラドックスと思うことには、実は思考力の限界が深く関わっています。
より一歩先へ思考を広げることができれば、パラドックスというものは無いということに気がつきます。