本記事は、私のオリジナルではなく、鬼塚 英昭 著 「日本の1番酷い日」のレビュワー文の転載です。
<万世一系ではない天皇家出自の推移;仮説>
(1) 第1王朝(倭人王朝;古代北イスラエル国王家エフライム族Y染色体DNAの倭人系末裔) 神武天皇~~孝元天皇~武内宿禰→応神天皇~~継体天皇~~推古天皇
▼原田常治著「古代日本正史」「上代日本正史」によれば、高句麗の東明聖王(トウミョウセイオウ):(朱蒙シュモウ=弓の達人のこと;扶余氏(フヨシ)の長男・沸流が建国した沸流国滅亡で国王・布都一族が出雲に渡来し、子孫の素盞嗚尊が出雲国建国する。
素盞嗚尊(スメラノミコト)と大日霊女貴尊(卑弥呼)の末子で倭国(邪馬台国)相続人熊野楠日尊(鵜草葺不合尊)の末子で倭国(邪馬台国)相続人 神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレビコノ スメラノミコト=後の神武天皇)が、素盞嗚尊(スメラノミコト)第5子饒速日尊の大和「日本」国の末子相続人伊須気余理比売(ヒメタタライスズヒメ)に婿入りして大和「日本」国と倭国(邪馬台国)の統合による「大和朝廷」が辛酉の年(AD 241)に成立し、素盞嗚尊孫の磐余彦尊が「神武(ジンム)天皇」が即位する。
素盞嗚尊(スメラノミコト)は高句麗の東明聖王(朱蒙;扶余氏)→満州の北扶余国王 解慕漱(ヘモス)・解夫婁(ヘブル)→古代北イスラエル王国王家エフライム族に繋がるが、神武天皇の和風諡号「神日本磐余彦天皇(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト)」は、ユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーク氏によると、これはヘブル・アラム語で「カム・ヤマトウ・イベリ・ペコ・シュメロン・マクト」と聞こえ、これは「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」を意味し、サマリアは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家のことなので、初代神武天皇の古代天皇家は古代北イスラエル王国王家エフライム族出自であり、古代大和朝廷は古代北イスラエル王国再興であることを証明している。
▼孝元天皇曾孫の武内宿禰が、神功皇后との御子である誉田別王を擁して九州で旗揚げして大和へ攻め上がり、仲哀天皇の御子である香坂王と忍熊王を滅ぼし、皇位簒奪して誉田別王を応神天皇即位させた。
(2) 第2王朝 [百済王朝;古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)Y染色体DNAの百済系末裔]
(百済・武王;舒明天皇)~天智天皇(百済系)~桓武天皇(百済系)~~後亀山天皇
▼中丸薫著「古代天皇家と日本正史」による飛鳥~奈良時代の百済・新羅系王朝の例
在位年 代・天皇名 天皇の出自 大臣の出自等
629-641 34代・舒明天皇 百済・武王本人 藤原鎌足;百済の大佐平
642-645 35代・皇極天皇 百済・武王妃の宝の本人 (太政大臣) 智積(614-669)
645-654 36代・孝徳天皇 百済・義慈王本人
655-661 37代・斉明天皇 百済・武王妃の宝の本人(重祚)
662-671 38代・天智天皇 百済皇子・翹岐(百済・武王の子) 藤原鎌足の子・不比等
672-672 39代・弘文天皇 百済皇子・翹岐の子の大友皇子 (659-720)
673-686 40代・天武天皇 高句麗・蓋蘇文(大莫離支)本人 天武天皇が国史編纂を指示
690-697 41代・持統天皇 高市皇子(天智天皇の子)
697-707 42代・文武天皇 新羅・文武大王(天武天皇の子)
707-715 43代・元明天皇 百済皇子・翹岐(天智)の皇女 古事記完成(712年)
715-724 44代・元正天皇 百済皇子・翹岐(天智)の孫娘 日本書紀完成(720年)
▼高句麗の東明聖王(朱蒙;扶余氏)次男の百済始祖王・温祚(オンソ)は、満州の北扶余国王 解慕漱(ヘモス)・解夫婁(ヘブル)→古代北イスラエル王国王家エフライム族に繋がる。従って、舒明天皇(百済・武王)が百済始祖王・温祚に繋がれば、天智天皇孫の桓武天皇も古代北イスラエル王国王家エフライム族に繋がる。
▼百済王子出自の天智・天武天皇が大化の改新(645)で第1王朝(倭人王朝)を倒し、百済滅亡(660)・白村江の敗戦(663)・高句麗滅亡(668)により、多くの百済王族・高句麗王族・貴族等が日本に亡命し、天智天皇孫の桓武天皇が第2王朝 [百済王朝;古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)Y染色体DNAの百済系]を確立する。
▼歴代天皇の中で桓武天皇のみ煌びやかな衣装と王冠の肖像画、桓武天皇は平安京遷都に際し、イスラエル人が一貫して行っていた「旧約聖書」の「創世記」から登場する儀式の燔祭(ハンサイ;主に羊などの動物を祭壇で灰になるまで焼いて神に捧げる儀式)を行い、更に、エルサレムはへブル語で「平安な都」の意味、つまり平安京である。
桓武天皇の時またはその前に、ダビデの血をひくユダ族の秦氏の血が天皇家に入ってイスラエルとユダの統一王家が実現したので、秦氏は古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)再興であるエルサレム城の平安京建設と、ソロモン第3神殿の伊勢神宮建設に邁進したと思われる。つまり、平安京、特に京都御所は、古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)再興の証であるエルサレム城であり、伊勢神宮はソロモン第3神殿である。ちなみに、伊勢神宮の内宮には新約聖書のイエス・キリスト、外宮には旧約聖書の唯一神ヤハウエが祀られている。 そしてこの時に、イスラエルとユダの統一王家実現を記念して、獅子とユニコーンが盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている天皇の王冠「イスラエルとユダの統一紋章」が製作されたと思われる(ノーマン・マックレオド著「日本固有文明の謎はユダヤで解ける」)。
(3) 第3王朝 [足利王朝;古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)Y染色体DNAの百済系末裔]
足利義満(第56代清和天皇末裔で足利尊氏の孫;鹿苑院太上天皇)→伏見宮貞成親王(後崇光院太上天皇)→後花園天皇~~孝明天皇
┌貞成親王(後崇光院太上天皇)─(102)後花園天皇・・・
├(100)後小松天皇─(101)称光天皇
足利義満(鹿苑院太上天皇)┼義持(4代将軍)
├義嗣
└義教(6代将軍)
伏見宮家系図 註 (N3)は北朝の、(F1)等は伏見宮家の代数
(N3)崇光天皇─(F1)伏見宮栄仁親王┬(F2)治仁王
├僧(法親王)- 僧(法親王)- 僧(法親王)
└(F3)後崇光院(貞成親王)┬(102)後花園天皇
└(F4)貞常親王・・・
ブログ帝国電網省「歴史再考」の「北朝は滅亡していた!!南北朝秘史-其の壹-(1997.11.15)」
のネット情報によれば、足利義満は後円融天皇の皇妃・通陽門院を犯し、生まれたのが後小松天皇だった。後円融天皇の全ての后妃を足利義満に犯された訳ですから、後円融天皇の血を引く者はおらず、後円融天皇の系統は、その死をもって「断絶」した。
足利義満が、子の貞成親王を使って伏見宮家を乗っ取り、その子を後花園天皇として即位させた。この血統が孝明天皇まで継続する。つまり、北朝は後円融天皇の系統も、伏見宮家も、全て、足利義満によって滅ぼされたのです。それ以後の「北朝」系は、足利義満の血を引く者が継承し、天皇家は足利王朝となった。ところで足利義満は第56代清和天皇末裔の足利尊氏の孫なので、仮説の第3王朝の足利王朝は、仮説の第2王朝である古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)Y染色体DNAの百済系末裔でもある。
ところで、伏見宮貞成親王の尊称;後崇光院太上天皇は後花園天皇の父のためであり、足利義満の尊称;鹿苑院太上天皇は後小松天皇と伏見宮貞成親王の父で後花園天皇の祖父のためであるが、足利義持(4代将軍)が辞退している。但し、相国寺過去帳に足利義満をさして「鹿苑院太上天皇」とあり、臨川寺の位牌にも「鹿苑院太上法皇」と記されている。
(4)第4王朝(大室または毛利王朝?)
明治天皇(大室寅之祐;後醍醐天皇第11番目の皇子満良親王の末裔ではなく平民の子)
→大正天皇(子種なし)
→昭和天皇(長州藩毛利家から西園寺家へ婿養子の西園寺八郎の子、又は明治天皇の子)
→今上天皇
① 孝明天皇─睦仁親王(本来の明治天皇)
┃
昭憲皇太后
明治天皇(大室寅之祐)
┠────────大正天皇
柳原愛子
明治天皇(大室寅之祐)にとって、短命だったとは言え、「睦仁親王」は孝明天皇より皇位を継承した「先帝」です。その先帝の妻だったからこそ、「皇太后」なのです。睦仁親王の正妻だった昭憲皇太后は終生、御所内に「幽閉」されたも同然であった。そして、柳原愛子こそが、明治天皇(大室寅之祐)にとっての本来の「皇后」だった訳です。
② 明治天皇すり替えの証拠
伊藤博文が自ら隊長となつた長州力士隊に、かつて吉田松陰が南朝再興の理想を託した一人の少年、奇しくも睦仁親王と同年の16歳になる「大室寅之祐」なる者がいて、吉田松陰の命を受けた木戸と伊藤が掌中の玉の如くして養育し、孝明天皇と睦仁親王を暗殺した後で、睦仁親王とすり替えたというものである。
▼即位前(睦仁親王時代)
睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。 睦仁親王は、右利きだった。 御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。 睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。 睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。 又、政務にも無関心であった。 元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。 即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。
▼即位後「明治天皇(大室寅之祐)時代」
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。
その結果、口の周りに「あばた」が残った。 その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。 又、「あばた」を隠す為に、髭を生やされた。 明治天皇は、左利きだった。 寅之祐が4歳の時、母親が離婚した為にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。 又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。 明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。 明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。 体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。 明治天皇は、書が「達筆」であった。 又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。
結論として、「万世一系」ではない現天皇家は、仮説の第3王朝 [足利王朝;古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)Y染色体DNAの百済系末裔] とは断絶して、昭和天皇の父である明治天皇、または西園寺八郎出自の長州藩毛利家による仮説の第4王朝(大室または毛利王朝?)となっている。
従って、戦後臣籍降下した仮説の第3王朝;足利王朝の伏見宮親王系11宮家の皇族復帰と天皇即位により、仮説の第3王朝 [足利王朝;古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)Y染色体DNAの百済系末裔] の皇統復活が望まれる。