①話題の提起
youtubeに個人的にとても面白い動画がありました。
僕が個人的に好きな養老孟司先生(東大解剖学部の教授を長年務められた)の動画です。
ある、「モノ」を言葉で定義するとき、正しい定義を行うことはどのような事象においても100パーセント不可能である。
詳しくは下記のリンクをぜひご覧になってみてください。
思考実験などでよく遊ぶ方などには、とても面白い動画と思います。
ある、「モノ」を言葉で定義するとき、正しい定義を行うことはどのような事象においても100パーセント不可能である。
このようなことを先生は動画内でおっしゃっていますが、この問題は実は歴史的に根深く、紀元前のギリシャ哲学(アリストテレスやデモクリトス)や17世紀18世紀イギリス哲学(この時代におけるマテリアリズム主義が後の産業革命の動機づけの一端であったと私は考えています。)など、様々な流行した哲学観は時代をも彩ったものです。
②ここからさらに思考を進めてみると
ある、「モノ」を言葉で定義するとき、正しい定義を行うことはどのような事象においても100パーセント不可能である。
→即ち、ありとあらゆる定義は1点の視点角度から見ただけのものに過ぎず、モノを捉える角度というのは多角的であって、真実は1つではないし、もしくは真実というものは全くないかもしれない。
実はこの考え方というのは、アリストテレスが生み出した形而上学という学問の入り口部分です。養老先生の考え方も完全な形而上学的視点であり、形而上学のその対局にある唯物論(マテリアリズム)を養老先生は遠回しに批判しているようにも動画内から感じられます。
僕も形而上学の大ファンでして、唯物論よりも形而上学的視点を擁護しますが、唯物論は思考速度が速いためより行動的実践的な側面を持ち合わせている点はとても評価できるポイントかと思います。
現に、いま究極なほどのブームが起きているマルクスガブリエルを始めとする世界の可能性を切り開く新資本主義の思想は唯物論をベースに出来上がったものです。 例えば、NHK-BSでは「欲望の資本主義」という番組が定期的に制作されており、この番組内ではマルクス主義、世界中でデモ化したアンチキャピタリスト運動、2021年に日本国内でベストセラー新書となった斉藤幸平さんの「人新生の資本論」などどれもマルクス主義的価値観ををベースに作り上げられています。
③難しい話ですので、最後に、簡単に形而上学と唯物論の具体的な比較をしてみたいと思います。
結局、物事を定義づけられるものというのは無く、どの事物を説明してもそれは1つの解釈に過ぎないですね。
とすると、私たちが普段行なっている論証という事の無意味さがいかに感じられるかもしれません。
私はこのような考え方から、「おそらくそうであろう」という基準で推論するように心がけています。
このように考えてみると、最近よく理論的に説明しろだとか、論破しろなどという風潮が一部において流行っているように思いますが、こういった論証義務の無意味さを感じられるのではないかと。
さらに発展すると、形而上学という大変面白い学問があります。
古くはアリストテレスが作り上げ発展してきた学問です。 この学問は、いわゆる「これはこのように見えるからおそらくこうだろう、だからアレはアレなのか」というような推論形式を採る、そんな学問です。 (確証的な事物から事物を作り上げません。半ば非確証的な物事と物事を合わせて非確証的な結論に達しますが、それを繰り返す過程で信頼性を高めていく。)
なんとなくこうだろうと思えるアップルペンと、なんとなくこうだろうと思えるパイナップルペンを合わせたらppapが出来上がった。 なるほど、やっぱりppapの可能性は非常に高く、裏付けされる推論が多々あるため、この推論の信頼度は99%だ。 (真剣に書いてます、ふざけてません。)
こんな感じで推論するのが形而上学です。 形而上学は理系的な自然科学学問と定義されていますが、こういう思考のやり方は、ある意味文系的といえる学問です。
形而上学は、デカルトやアリストテレス流の考え方でして、 哲学や自然科学を行う上で、最終的にはこの世の中がどのようにして作られ私達が自己を自己と感じる法則は一体何なのかという所がゴールな事はカントなどの唯物論(マテリアリズム、物質主義)と同じなのですが、 考え方や思考過程という段取りにおいては、この唯物論と形而上学は丸っ切り反対的な思考法を取り入れています。
この2つの大きな違いについて書きたいと思います。 形而上学ではまず実体を実体として受け入れ、宇宙や神を考えることのスタート地点としてものすごくミクロな部分(つまり個人個人の五感で感じること)をとりいれています。
養老先生の解剖のお話やその他のお話では、割と形而上学的な推論が行われているように私は感じます。
それに対して、唯物論では物質的でして、我々という存在の実体は単なる脳内の電気信号に過ぎないので、数式上の事でしか世界は成り立っていない、とする思考法をとります。
さらに噛み砕くと、この2つの思考法の違いは、文系的思考と理系的思考の違いに類似していると私なりに感じております。
形而上学は、私たちの五感を頼りに、私達の視野が曖昧なことを自覚しています。そしてその曖昧な感覚から作り上げた曖昧な哲学を何度も分解しながら曖昧な考察を積み重ねる事によって最終的な結論に辿り着くような思考法で非常に文系的な思考法です。
対して、唯物論では最初から曖昧なものは一切取り入れず、確証的な事からしか理論を作らないとする態度の学問で、こちらは非常に理系的です。
