ところが、長保三年春四月二十五日、夫宣孝は疫病によって亡くなってしまった。その後、紫式部は『源氏物語』を書き始めたと考えられている。その評判によって、紫式部は寛弘二年(1005年)または同三年十二月二十九日に時の一条天皇の中宮藤原彰子(道長長女)のもとに女房として出仕することになった。
紫式部が宮仕えをするようになる頃、『源氏物語』 は宮中で広く読まれていたらしく、一条天皇が「この作者は日本紀(奈良時代に書かれた日本書記はこの頃から日本記と呼ばれていた)を読んでいるにちがいない」と評したことが『紫式部日記』にみえている。その漢学の学識が 高くかわれ、中宮彰子に白居易(唐の詩人)の新楽府(諷諭詩)を講じたことも同じく記されている。
巡り逢いて 見しやそれとも 分かぬ間に
雲隠れにし 夜半(よは)の月かな 紫式部
久しぶりに友と巡り逢って、
友か友でないか分からない間に別れた。
雲隠れした夜半の月の様だ。
有馬山 猪名(ゐな)の笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする 大弐三位
有馬山近くにある猪名の笹原に
風が吹けば、そよそよ音がするけど、
まったくそうよ、あなたを忘れはしない。
源氏物語
絵に描かれているのは、これから元服の儀式がはじまろうとする場面です。ここは清涼殿の東廂。桐壺帝が東を向いて倚子に座っています。
御前に座っている、十二歳の源氏の君はまだ角髪を結っています。いちばん大切な「引入れ」の役をつとめる左大臣は、正装の束帯姿です。理髪役をつとめる大蔵卿もうしろに控えています。
この君の御童姿、いと変へまうく思せど、十二にて御元服したまう。
居起ち思しいとなみて、限りある事に事を添へさせたまふ。
帝は源氏の君の童子の姿をとても変えたくなく思ったが、十二歳になったので元服なされた。
立ったり座ったりして、帝自らが率先してご指導され、取り決め以外にも添えてお上げになった。
帝の子に生まれた光源氏は、左大臣の娘・葵の上と結婚するが、亡き母の面影を持つ父の愛人・藤壺との禁断の恋に落ちる。思う様にならない恋に悩む光源氏は様々な女性と逢瀬を重ねて行く。
紫式部日記より
『源氏物語』が中宮彰子の御前に置いてあるのを、殿(彰子の父道長)が御覧になって、いつもの冗談を口になさったついでに、梅の実の下に敷かれた紙にお書きになった歌、
この梅が酸っぱいもの(酸(す)き物)だと有名で目に入れば好んで折り取られるように、あなたもまた好色(好(す)き者)だと名の知られた方だから、姿を目にした男が、折らずに放って過ぎ去ることなどなかろうと思うね。
こう詠んで私にくださったので、「人にはまだ折られたことなどない私ですのに、いったいどなたが、「このすきもの」などと言いならしなさったことでしょう。目に余りますわ」と申し上げた。
渡り廊下に設けた部屋に寝た夜、どなたか戸をたたく人がいると音を聞いたけれど、恐ろしくて、物音さえ出さずに一晩を明かしたその翌朝、
一晩中、真木(松・杉・檜など)の戸の前にいて、水鶏(くいな)の鳴き声よりも激しく、泣く泣く戸を叩いたのに、(お返事もなく)気落ちしていたことよ。という返歌、
何事かしら、とばかりに、水鶏の鳴き声のように戸ばかりを叩く音は聞きましたが、(上辺だけのお方故に)もし戸を開けていたら、いかに悔しい思いをしたことでしょう。