私の遠い親戚の紫式部を紹介します。私の祖先は藤原為憲で藤原南家の家系ですが、紫式部の先祖は藤原冬嗣で藤原北家の家系です。更に、紫式部は左大臣藤原冬嗣の六男の良門の家系です。良門は内舎人(うちとねり)で宮中警護人でした。


紫式部はペンネームで本名は藤原為時の女子です。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集の第五巻に載っています。又、役職名は上東門院(一条天皇の二人目の皇后・藤原彰子)女房(宮中に仕える女性)です。





紫式部は、父藤原為時と母藤原為信女との間に生まれた。父も母も文化人ではあるが、受領(国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者)階級出身の中級貴族であった。当時の貴族階層の女性については、 生没年もはっきりしない場合が多く、紫式部の生年についても諸説がある。
長徳二年(996年)官位に恵まれなかった父為時がようやく越前守に任じられ、父に従って紫式部も越前に赴いた。長徳三年の冬から四年春にかけて、紫式部は帰京し、長徳四年の晩秋から冬にかけて、藤原宣孝と結婚して、翌長保元年(999年)には娘賢子が生まれたと考えられる。
ところが、長保三年春四月二十五日、夫宣孝は疫病によって亡くなってしまった。その後、紫式部は『源氏物語』を書き始めたと考えられている。その評判によって、紫式部は寛弘二年(1005年)または同三年十二月二十九日に時の一条天皇の中宮藤原彰子(道長長女)のもとに女房として出仕することになった。
紫式部が宮仕えをするようになる頃、『源氏物語』 は宮中で広く読まれていたらしく、一条天皇が「この作者は日本紀(奈良時代に書かれた日本書記はこの頃から日本記と呼ばれていた)を読んでいるにちがいない」と評したことが『紫式部日記』にみえている。その漢学の学識が 高くかわれ、中宮彰子に白居易(唐の詩人)の新楽府(諷諭詩)を講じたことも同じく記されている。
その後、父為時は正五位下に昇格して越後守に任命されています。
中宮藤原彰子が20歳で後一条天皇を出産したのが1008年で、紫式部が娘を出産したのが999年なので、紫式部は10歳位年上の教育係でした。又、彰子が出産する様子が「紫式部日記」に書いてあり、記録係でした。漢文ではなく和文で書いてあるので、詳細に描写されています。
又、紫式部の娘は大弐三位というペンネームで歌人になり、長和六年(1017年)18歳頃、母の後を継ぎ上東門院(一条天皇の二人目の皇后・藤原彰子)女房に出仕した。

巡り逢いて 見しやそれとも 分かぬ間に

雲隠れにし 夜半(よは)の月かな 紫式部


久しぶりに友と巡り逢って、

友か友でないか分からない間に別れた。

雲隠れした夜半の月の様だ。


有馬山 猪名(ゐな)の笹原 風吹けば

いでそよ人を 忘れやはする 大弐三位


有馬山近くにある猪名の笹原に

風が吹けば、そよそよ音がするけど、

まったくそうよ、あなたを忘れはしない。


源氏物語


この君の御童姿、いと変へまうく思せど、十二にて御元服したまふ。居起ち思しいとなみて、限りあることに事を添へさせたまふ。

絵に描かれているのは、これから元服の儀式がはじまろうとする場面です。ここは清涼殿の東廂。桐壺帝が東を向いて倚子いしに座っています。

御前に座っている、十二歳の源氏の君はまだ角髪みずらを結っています。いちばん大切な「引入れ」の役をつとめる左大臣は、正装の束帯姿です。理髪役をつとめる大蔵卿もうしろに控えています。


この君の御童姿、いと変へまうく思せど、十二にて御元服したまう。

居起ち思しいとなみて、限りある事に事を添へさせたまふ。

帝は源氏の君の童子の姿をとても変えたくなく思ったが、十二歳になったので元服なされた。

立ったり座ったりして、帝自らが率先してご指導され、取り決め以外にも添えてお上げになった。


帝の子に生まれた光源氏は、左大臣の娘・葵の上と結婚するが、亡き母の面影を持つ父の愛人・藤壺との禁断の恋に落ちる。思う様にならない恋に悩む光源氏は様々な女性と逢瀬を重ねて行く。


紫式部日記より


 『源氏物語』が中宮彰子の御前に置いてあるのを、殿(彰子の父道長)が御覧になって、いつもの冗談を口になさったついでに、梅の実の下に敷かれた紙にお書きになった歌、 

この梅が酸っぱいもの(酸(す)き物)だと有名で目に入れば好んで折り取られるように、あなたもまた好色(好(す)き者)だと名の知られた方だから、姿を目にした男が、折らずに放って過ぎ去ることなどなかろうと思うね。

こう詠んで私にくださったので、「人にはまだ折られたことなどない私ですのに、いったいどなたが、「このすきもの」などと言いならしなさったことでしょう。目に余りますわ」と申し上げた。

 渡り廊下に設けた部屋に寝た夜、どなたか戸をたたく人がいると音を聞いたけれど、恐ろしくて、物音さえ出さずに一晩を明かしたその翌朝、

 一晩中、真木(松・杉・檜など)の戸の前にいて、水鶏(くいな)の鳴き声よりも激しく、泣く泣く戸を叩いたのに、(お返事もなく)気落ちしていたことよ。という返歌、

 何事かしら、とばかりに、水鶏の鳴き声のように戸ばかりを叩く音は聞きましたが、(上辺だけのお方故に)もし戸を開けていたら、いかに悔しい思いをしたことでしょう。