国鉄大阪日帰りの旅(昭和54年)

 

大阪の電機メーカーへ就職し、1年間大阪の寮に住んでいた頃の話です。

お尻が痛くなるほど沢山鉄道に乗れた日帰りの旅を2つ紹介いたします。

 

(1)紀伊半島周遊券(昭和54年9月8日乗車)

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①天王寺8:02発(快速103系)和歌山8:59着

②和歌山9:21発(326M113系)田辺11:12着

③田辺12:09発(2336M113系)新宮15:05着

④新宮15:27発(126レDF50)亀山20:46着

⑤亀山20:49発(259Dキハ35)奈良22:40着

⑥奈良22:41発(829K113系)天王寺23:24着

 

見どころ

串本-新宮 海岸線

紀伊有田 123レ(EF58)

紀伊勝浦-新宮 くろしお号(381系)、南紀号(キハ82)

紀伊長島-梅ヶ谷 荷坂峠

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(2)松江・大社周遊券(昭和54年9月21日乗車

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①京都22:04発(山陰号DD51)鳥取4:40着

②鳥取駅7:05発(路線バス)鳥取砂丘7:24着

③鳥取砂丘9:19発(路線バス)鳥取駅9:38着

④鳥取9:54発(美保号キハ58)出雲市12:46着

⑤出雲市13:30発(大社線キハ47)大社13:43着

【大社駅(徒歩)出雲大社(徒歩)大社駅】

⑥大社14:53発(大社線キハ47)出雲市15:06着

⑦出雲市15:08発(美保号キハ58)松江15:43着

【松江駅(自転車)松江城(自転車)宍道湖(自転車)松江駅】

⑧松江20:04発(山陰号DD51)京都5:24着

 

山陰号編成表

DD511123(米子)+マニ60107(浜田)+スユニ61104(宮原)

+オハネフ1214(出雲)+スハフ42310(出雲)+スハ43204(出雲)

+スハ4257(出雲)+スハ43211(出雲)+スハ43234(出雲)

+スハフ42313(出雲)

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◼️ディーゼル機関車の夜明け

ディーゼル機関車、それは今でこそ国鉄の主要な地位に立つ機関車であるが、かなりの期間にわたりいわゆる特殊機関車の範疇を出ないシロモノであった。

ともあれ、国鉄に初めてディーゼル機関車が登場したのは、昭和4(1929)年のことである。それはドイツ製のDC10(機械式/600PS)とDC11(電気式/600PS)の2両で、たまたま第1次世界大戦の賠償として輸入されたものだった。しかし、当時は工業先進国として誉れの高かったドイツですらディーゼル機関車は試作の段階で、十分な性能を発揮せぬまま相継いで休車となり、のちに廃車にされてしまった。 国産では、昭和7(1932)年にDB10(機械式/560PS)、昭和10(1935)年にDD10(電気式/ 500PS)が製造されたが、ようやくディーゼル機関車の開発に端緒についたころ、第2次世界大戦が始まり、石油事情の悪化とともにディーゼル機関車を走らすことも開発することもできなくなってしまったのである。

第2次大戦の敗戦後、わが国の工業生産は壊滅状態に近い打撃を受けていた。あわせて進駐軍の占領政策により、すべての生産活動は干渉を受け続け、ディーゼル機関車の研究再開も立ち遅れていた。

進駐軍といえば、京浜地区の湾港入換え運転用として、ゼネラルエレクトリック製のDD12(電気式/ 360PS)を持ち込入んできた。 DD12は、本来軍務用に製造されたもので、堅牢な構造とともに故障の少ない優秀な機関車であった。 わが国でディーゼル機関車の開発が絶えていた間に、諸外国の方はずいぶん進歩していたわけである。 これに刺激を受けて、わが国の工業界がようやく復興してきたころ、国鉄では非電化亜幹線の動力近代化計画が立てられた。つまり、新しいディーゼル機関車を開発して投入していこうというわけである。そして、昭和27(1952)年度には、この新形ディーゼル機関車の予算が組み込まれていた。明けて昭和28(1953)年4月、新三菱重工三原車両工場において、3両のディーゼル機関車が落成した。これが、国鉄初の本線用ディーゼル機関車DD50である。戦前に何両かのディーゼル機関車製造を経験しているとはいえ、実質的にはこの時点からわが国のディーゼル機関車の歴史が始まったといえよう。

◼️メーカー試作機の競演

DD50が落成した翌年、入換え用としてDD11(液体式/ 320 P S)が誕生したが、これらの機関車が一応の成功を納めてくれたので、強力で保守の容易なディーゼル機関車に対する期待も大きくなつた、そのため、各車両メーカーでも独自の設計によるディーゼル機関車の製造が相継いだ。これらには各メーカーが設計・製作上の技術習得、海外輸出に対する試作などの目的があったが、国鉄でも今後の参考にメーカー試作機をいくつか借り入れ、国鉄線上で試用することになった。試作機はほとんどの場合、1社、1車種、1両といったもので、方式も電気式あり液体式ありで一貫性がまるでない。デザインや塗装も海外輸出の関係で、大胆かつユニークなものが多い。

借り入れは昭和29(1954)年に始まり、DD40(のちDD92)、DD41(のちDD90)、DD42、DD91、DD93、DF40(のち2代目DF91)、DF 41(のちDF92)、DF90、DF91(1代目)、DF93の10両が借り入れられた、このうち、本線で列車のけん引に使用されたのは、DD91、DF40、DF41、DF90、DF91(1代目)、D F93の6両である。

■本格的本線用ディーゼル機の登場

DD50の使用経験により、ともあれ本線用ディーゼル機関車の可能性が約束された。 そこで、DD50の改良形として、新たなるディーゼル機関車が計画されたのである。 そして昭和31(1956)年、この機関車はDF50として登場した。 当時もまだ、独自で大出力のエンジンを開発する技術は確立されていなかったので、外国メーカーとの技術提携により、方式もDD50と同様に電気式を採用している。 DD50の欠点として、重連使用による馬力当たりの製作費が高かったこと、軸重が15tもあり丙線への入線が困難だったこと、列車暖房装置を搭載していなかったことなどがあったのは先にも触れたとおりだが、DF50では、これらの問題を一挙に解決している。 まずエンジンは、DD50に使用されていたスイス・ズルツァー社との提携品である8LDA25(900 PS / 800rpm)を出力アップした8LDA25A(1,060PS / 800rpm)を使用して、効率の悪い重連運転をしなくてすむようにした。また、のちに奥羽本線に投入するために強力形も製造された。これは500番代に区別され、エンジンはドイツ・マン社との技術提携によるV6V20/30mA(1200PS、900rpm)だ。

また、軸重を抑制してレールへの横圧を少なくするため、当時としては珍しいB-B-Bの軸配置を採用した。 このため、軸重は約14tとなり丙線への入線も可能になった。なお、B-B-Bの軸配置は、DF50の成功によりその後電気機関車に採用され。 EF60以降の新系列機が続々と誕生していったのである。 DF50の両端台車と中間台車は、ともに揺れマクラ式の2軸ボギー台車である。しかし、中間台車は普通の揺れマクラツリにTリンクを使用しており、曲線通過時に復元力を生じないようになっている。 また、バネも軟らかいものを使用しているので、走行性能は大変良く、乗務員室の乗りごこちも電車に劣らない。

さらに列車暖房用としては、蒸気発生装置(SG-3)を搭載し、冬期に暖房車の連結を必要としなくなった。 車体は、箱形で、妻面は当時、電気機関車で流行していた傾斜して中央に貫通扉がついたスタイルである。DD50とは異なり、単機での運転が中心なので、両端に運転室が配置されている。 運転室と中央部の機械室は、防音壁によって仕切られているが、箱形の電気機関車と同様に運転中でも機械室への出入りが可能で、反対側の連転室に通り抜けることもできる。 機械室の中には、エンジン、主発電機の他、ラジエータ、蒸気発生装置などが納められており、床下に燃料タンクや蓄電池が配置されている。 

こうしてDF50は、客貨両用の本線用ディーゼル機関車として生産され、昭和38(1963)年まで137両が製造されている。 そして、奥羽、中央、北陸、紀勢、山陰、土讃、日豊各本線に投入され、北海道を除く全国に配置され、特急列車を始めとする優等列車、普通列車、貨物列車のけん引と広く活躍していた。しかし、DD51の登場と電化の伸展で、しだいにその活躍範囲をせばめ、現在ではわずかに四国の高松運転所と高知機関区に配置されているだけで、予讃、土讃両本線の貨物列車をほそぼそとけん引している。 だが、このDF50最後の砦も、まもなく後任のDE10に置き換えられる予定で、DF50の20数年にわたる活躍もあとわずかである。

◼️DD51誕生

DF50の完成により、国鉄の懸案であった「動力近代化」も順調に進むように思われたが、思わぬ伏兵が存在していた。 それは、DF50の性能不足とコストの問題であった。 DF50は、本線用の客貨両用機ということで、低速ではD 51形蒸気機関車クラス、高速ではC57形蒸気機関車クラスの力に匹敵するべく設計されていたが、実際にはそれをやや下回る性能しか発揮できなかったのである。 そのため、幹線の大形蒸気機関車を置き換えるためには重連で使用することになり、当時の製作費で約7000万円という高価(ちなみにDD51では約6500万円)なDF50では非常にロスが多くなってしまうのである。 ただし、この事実が分かっていても、当時の技術レベルではいたしかたなく、急勾配トンネル区間の媒煙追放による旅客サービスという意味で製作が続けられたのである。 しかし、新たなる本線用ディーゼル機関車の開発がストップしていたわけではない。 昭和34(1959)年、C62 / D52形蒸気機関車クラスの性能を持つ大出力の本線用客貨両用ディーゼル機関車が計画され、予算が正式に組まれた。 前年に、液体式の入れ換え用ディーゼル機関車DD13が完成していたので、この新しい機関車も夜体式とし、純国産で製作されることとなった。 この機関車がDD51である。 以来、3年の月日をかけて、1,000馬力のエンジンと液体変速機を開発、列車暖房用蒸気発生装置の小形化に成功し、昭和37(1962)年3月31日、日立製作所水戸工場で1号機が完成したのであった。

◼️DD51という機関車

新鋭ディーゼル機関車DD51で、もっとも多くの人々の注目を受けたのは、その斬新なスタイルであった。 DD51は、キャブを車体中央部に位置させ、両端にエンジンを分散したセンターキャブ・スタイルとなっているのだ。 当時、アメリカなどではこのスタイルの本線用ディーゼル機関車が製造されていたが、わが国では、入換え用以外にこのスタイルを採用するのは常識外のことだったのである。 しかし、DF50で問題にされたコストを考えると、箱形両運転台のスタイルよりもずっと有利ということで採用された。この他、

●DD20(DD51とともに開発されたディーゼル機関車)とラジエータなどの共通部品を多くすることができる。

●機関の全高が低いので、視界を犠性にすることもほとんどない。 

●部品類のギ装が容易で、保守、点検も楽になる。

●エンジン、変速機、動台車のレイアウトが簡単になり、心皿付動台車が使用できる。 などの長所をもっている。 エンジンは、DD13に搭載されていたDMF31SをV形8気筒にしたDML61S(1,000PS / 1,500rpm)で、2機搭載されている。 のち、給気冷却器付きのDML61Z(1,200PS / 1,500rpm)に交換され、出力アップされている。 液体変速機は、新たに開発されたDW2Aで、3コのトルクコンバーターを内蔵している。 これは、走行速度の範囲により、最適のコンバーターを電子制御によって選び出し、そのコンバーターにのみ油を入れて動力を伝えるというものだ、特徴はエンジンと動輪は常に液体を介して継がっている、それまでの液体変速機は、高速時にはエンジンと動輪が直結して運転されていたので、まったく新しい方式といえる。 エンジン、液体変速機ともに、海外の技術にたよらず、国産の技術でもって完成している、これは、関係者の献身的な努力の結果といえるが、のちに海外の技術にたよったDD 54の液体変速機(ドイツ・メキドロ社製)で苦労したことを考えると、賢明な決断であったといえよう。 軸配置はB-2-Bで、動力台車はDD13と同じDT113B、中間台車はブレーキなしのTR101だ、これは、乙線入線が可能なように設計されたもので、最大軸重は14tにおさえられている。 量産形からは、中間台車が空気バネに変更されている。 低速時にはこの空気バネ圧を排出して、動力台車の粘着力をあげることができる。 列車暖房用の蒸気発生装置は、SG-4を搭載しており、仙台一青森往復のロングランにでも十分たえられるよう4立方メートル近い水タンクもそなえている。

◼️DD51の性能試験

完成した1号機は、早速常磐線の水戸一土浦間で走行試験が行なわれた、一応の満足できる結果を納めたのち、東京駅の構内で一般公開され、国民の前に初めてその勇姿を現わしたのである。 本格的な性能試験は、鉄道技術研究所と奥羽本線で行なわれた。 特に奥羽本線では、10%勾配の1,000t引き出し試験が行なわれた。 これは、D51形蒸気機関車なら可能なもので、同じクラスの性能をねらったDD51としては当然の試験であった。 しかし、初試験では失敗に終わり、10%勾配では800tの引き出しが限界だった。 原因は直ちに調査検討され、全体に粘着性能が不足していることが分かった。 そこで、

●ノッチ数を7から14へ細分化

●砂箱を各動力台車4コから8コへ追加

●前後の液体変速機を同一化(1号機では、前後の液体変速機に若干の差があり、性能の良い方を本採用する予定だった)

などの改良が行なわれた。 翌年3月には、これらの点が改良された量産試作車が完成、今度は東北本線の村崎野付近で、引き出し試験が行なわれた、その結果10%勾配において1,300tの引き出しに成功、ここにDD51の将来が約束されたのである。 量産が開始されたDD51は、早速、東北、鹿児島両本線の優等列車けん引用として投入されていった。 この頃、エンジンのクランク軸受焼損などという重大事故が多発して、欠陥機関車の格印がおされ、一時はDD51の将来そのものが危ぶまれたこともあった。 しかし、機関区、工場といった現場担当者と設計技術陣の惜しみない努力により、この初期故障は克服され、安定した機関車として成長していったのである。 このDD51の初期故障には、かなり致命的なものもあったが、これを克服できたというのは、純国産で作られた機関車という点が大きい、すなわち、自分達で作ったものであれば、故障の原因も容易に推定でき、それを克服すればそのままノウハウの蓄積となっていくのである。 その意味でも、技術レベルの低かった当時、純国産でディーゼル機関車を設計した判断は正しかったといえよう。

■DD51の兄弟たち 

DD51用に開発されたエンジン (DML61S)は,初期故障を克服後, 安定した性能を示し, 同形または同系列のエンジンを搭載したディーゼル機関車が数多く誕生している。直系のディーゼル機関車としては,入換え用のDD20, 入換えとラッセル併用のDD21, ロータリー用のDD53, 新幹線用911, 簡易線用DD16 などがあげられるが,いまや一大ファミリーを築きあげたDE10, DE11, DE15のエンジンもDML61系だ。DD20は, DD51が登場した昭和37 (1962)年に汽車会社で製造された。エンジンは,DML61S(1,000PS/1,500rpm)を1機搭載,ちょうどDD51を半分にしたようなL形のスタイルだ。DD13に代わる入換え用の機関車ということで計画されたが,軸重の関係で量産には至らず,DML61Z(1,100PS/1,500rpm)を搭載したセミセンターキャブ・スタイルの2号機が製造されたにとどまる。 最終的に, 1, 2号機とも新潟地区でDD53の補機として使用され、現在は休車になっている。

DD21は,昭和39 (1964) 年にDD20を除雪用にして, 製造されたものだ。すなわち, DD20にラッセルを取り付けたスタイルで,降雪期は除雪専用, それ以外は入換え用に使う計画であった。しかし, ラッセル部分は着脱式ではなく,車体に固定されたままだったので, 使い勝手が悪く, 1両のみの製造に終ってしまった。DD20同様, 新潟地区で使用されていたが,現在は休車になっている。

DD53は,昭和39 (1964) 年から翌年にかけて3両製造されたロータリー式の除雪車だ。 ロータリー式除雪車としては,すでにDD14が活躍していたが, 豪雪時では出力が不足するため, 強力機のDD53が計画されたのである。 エンジンはDML61ZR (1,100PS/ 1,500rpm)を2機搭載して,その他の部分はほとんどDD51と同じだ。ただし,除雪機構のため,車体は箱形スタイルになっている。ロータリー式の除雪装置は,前頭車と呼ばれ, 機関車本体とは連結 式になっている。そのため, 除雪出動時以外はDD51と同様に,本線で列車のけん引にあたっている。なお, 除雪作業時は,エンジンの全出力をロータリーの回転用に使用するため, 補機のあと押しを 必要とする。

DD16は,昭和46 (1971) 年から製造された簡易線専用のディー ゼル機関車で,65両が製造された。設計思想はDD20に近く、エンジンをDD51と同じもの (DML61Z/800PS) を出力ダウンして使い極力メインテナンスをよくしている。DD16が製造された時はすでに簡易線の旅客列車が気動車化されていたので,列車暖房装置は搭載していない。なお, ラッセル式の前頭車を前後に取り付けられるように改造されたグループもある。

911は,昭和39 (1964)年の東海道新幹線開業時に製造された広軌の本線用ディーゼル機関車である。電車救援用として作られたもので翌年に2両増備されている。エンジン, 液体変速機ともにDD51 と同じものだが, 動軸が6軸のいわゆるDF形で,粘着性能は格段に向上している。速度は,高低2段切り換え式で最高速度は160km/時となっている。車体は,EF66に似た箱形タイプである。


 

進駐軍が持ち込んだGE製DD12は新鶴見機関区の所属だったが、茅ヶ崎機関区に留置され相模線と西湘貨物ターミナルで働いていた。


キハ82南紀


キハ58美保