安倍館町遺跡は北上川に臨む台地縁辺部に立地する、大形の戦国期城館である。川沿いに北から勾當館・外館・北館、本丸・中館・南館の6郭が並び、外館西側から南館南側まで、幅の広い帯曲輪が取り巻くプランである。帯曲輪は絵図などにも名称の記載がないが、便宜上の名称として使用する。それぞれの曲輪は堀で区画されるが、確実に土塁が存在するのは中央の本丸のみである。本丸の土塁は現在北辺に断続的に痕跡を残すほか、かつて西辺にも存在したことが、地元の人々の記憶に残っている。曲輪の地形は、現況では外館以南の5郭の輪郭はたどれるが、勾當館と帯曲輪の範囲については、住宅建設等で不明瞭となり、一部をのぞいて判別できない状況である。そこで、現況で残る地形と地籍図(第54図)、それに寛文8年の奥州之内岩手郡栗谷川古城図(第57図)の記載内容をもとに、縄張りを復元したプランが第53図である。

この城館は最も土地の高い部分に外館(標高146 m)があり、次の北館から南館に向けて1m前後の高低差で順次低くなっている。外館以南の5郭はおしなべて郭内の削平が行き届いており、築城にあたってはかなり入念な造成がおこなわれたものと考えられる。郭内の地形は南館の東端部分が一段低く造成されるほかは、他の4郭の内部はそれぞれ同一平坦面に造られている。北側の勾當館は外館よりも1m〜1.5m低く、しかも東側の北上川へむけて緩く傾斜している。また帯曲輪は外館から南館にいたる5郭よりも低く、外方へ緩く傾斜し、勾當館と堀を隔てる北端は、勾當館と同一レベルで対時する。この曲輪相互の高低差と、平面位置の関係から、外館から南館に至る5郭が中枢的曲輪であり、勾當館と帯曲輪が外郭的曲輪と推察される。

 

現在の本丸跡の写真です。向かい側はローソン安部館町店です。中館と南館の間の堀跡が残っています。本丸の北側の堀には部分的に水が張っています。

 

参考に上田城の縄張図です。


文治5年7月、 鎌倉を発した源頼朝は、 厚樫山の合戦で藤原泰衡軍を破り、 平泉に入り、 9月2日平泉を発し、 9月4日志和陣ヶ岡に到着、9月11日陣ヶ岡より岩手郡厨川に向かい、 同日夕刻に厨川館に到着、18日までこの地に滞在し、19日再び平泉に向かっている。 この間、 頼朝は厨川棚付近に宿館を定め、 源頼義・義家の戦績厨川棚を視察している。 この間9月12日には、 伊豆の御家人工藤小次郎行光が、 軍功により岩手郡を拝領した。 行光はその礼として盃酒 垸飯を献じている (『吾妻鏡』)。 工藤氏はその後建久年間長光 (行光の男子) の代に下向し、 岩手郡地頭として厨川館にあり、郡の統治にあたったとされている (『奥南落穂集」)。 鎌倉幕府滅亡後、 甲斐南部氏波木井師行は、 陸奥守北畠親房とともに多賀国府に入り、北奥に派遣された。 その後陸奥守北畠顕家の国代として国府に君臨して以来、北奥の実権は次第に根城 (八戸) 南部氏が掌握するようになる。 興国元年(1340) もしくは2年(1341) から正平5(1350)~6年にかけて、 岩手郡厨川・上田斯波郡などで、 南朝勢北朝勢の間で戦闘があった。 工藤氏は元弘の乱より北畠顕家の従兵に加わったとつたえられているが、このころから岩手郡における工藤氏の勢力は次第に衰微していった。 岩手郡はその後応永年間のころから南部氏配下の福士氏が不来方に入り、近郷を領知したほか、西根には平館氏、一方井には一方井氏、 川東の地域は川村氏、 雫石には戸沢氏が入っていた。 南の斯波郡には奥州探題大崎氏系の斯波氏があり、 岩手志和ともに国人土豪の割拠するところとなった。 こうしたなかで岩手郡地頭の工藤氏の領地はしだいに厨川村のみに縮小し、 厨川氏を称したと伝えられている (『奥南落穂集』)。 天文九年(1540) 北奥の南部氏勢力の要となっていた三戸晴政は、 田子 (石川) 高信らと共に岩手郡に進攻、 雫石より戸沢氏を追った。 このとき工藤 (厨川)氏・川村氏・福士氏等、 岩手郡の国人土豪はことごとく晴政に帰属したとされているが、ほどなく斯波氏によって岩手郡の雫石川流域はおさえられたようである。 斯波氏は本拠の高水寺城のほかに、 岩手郡の雫石・猪去に支族を置き、高水寺と併せて志和の三御所と称した。 この斯波氏勢力の岩手郡進出の背景には、 遠野保の阿曽沼氏と斯波氏の同盟があったとする説がある (註)。 後年、阿曽沼氏一族の綾織越前広信が雫石氏に迎えられている。 天正10年(1582) 三戸晴政・晴継の跡に、田子信直 (高信の男子) が三戸城に入城、 三戸南部の当主となった。 同じく14年、 信直は岩手郡に進攻して雫石城を攻略、16年には斯波氏の本拠高水寺城を陥し、 志和郡一円を手中にしている。 この間、 岩手郡の国人土豪は、 南部斯波 の両勢力のはざまで相当に揺れ動いていたと思われるが、 信直の岩手郡志和郡進攻の結果、 大勢は南部信直に従うことになった。 ただ、 岩手郡斯波郡の国人や土豪の中には、中野氏や福士氏など、 信直と対立拮抗していた九戸政実の影響下にある者も少なくなかったし、 工藤氏のように斯波氏や志和郡の国人簗田氏との姻戚関係のあるものもいた。 このため三戸南部氏手中に入ったとはいえ、 岩手・志和郡内から旧斯波氏や九戸氏の影響力を完全に払拭するのには、相当の時間を要したと考えられる。 祐清私記には、天正末年に一旦破却された厨川城が、 慶長期の盛岡城築城にあたり、「警護之城」として利用されていたことが記されている。 同私記によれば、南部利直が工藤氏に対し、 城館の破却と退去を命じたが、 工藤氏が拒んだため、 姻族の大釜氏に討たせたという内容の記述がある。 同城は天正20年の破却書上には破却城の中に上げられており、城館としての体裁を維持したまま存続していたかどうかは疑問であが、 あるいは規模を相当に縮小して活用されていたものであろうか。 また、この城はおそらく安倍館遺跡の厨川城のことと考えられるが、里館遺跡の城館の可能性もない訳ではない。 この事件が事実か否か確認する術もないが、 近世大名として盛岡に居城を定めた直後の南部信直利直と、 旧体制を引きずりながら盛岡南部氏に従属していく岩手・志和郡の豪族との関係を物語る記述としては、 非常に興味深いものがある。


近世こもんじょ館

奥南落穂集 岩手郡之次第より