断捨離!と意気込んで、書類入れの片付けをしていると、手紙の束の間に母が描いた絵のカラーコピーが出てきました。
昔の実家の絵です。
実家は昔、お醤油を作っていました。
今でも実家の軒下には大きな瓶が埋まっていますし、実家を立て直しする前は醤油つくりの職人さんが寝泊まりしていた小部屋もお店の二階にありました。
戦後は造り醤油屋から小売の酒販店に変わり、すでに私が生まれた時は、創設者の祖父は他界し、父と祖母と母の3人で切り盛りしている昔ながらの酒屋さんでした。
酒屋さんの分厚い前掛けをした父は、毎日木の箱に入ったお酒やビール瓶の箱を軽トラックに積んで配達に回っていました。(勉強ができた父は関西の有名校に入学後、祖父の病気を期に地元から通える国立大学に入学し直し、後で聞いたのですが当時花形のNHKに就職が決まっていたそうです。祖父の病状が悪化したのを期に酒屋を継ぐことになりました。父の二人の弟はまだ東京の大学の学生でしたので、学費と仕送りをしなければいけなかった様です。私が小さい時に、ぽつんと、「指がふとおなったなあ。(太くなった)」と言っていたのを思い出します。)
お店の奥が住居となっていましたので、出入りはもちろん、お店を通らないと家に入れません。
これが思春期の私にとって何とも苦痛でした。
こじんまりとしたお店には木のカウンターがあり、看板おばあちゃんの祖母がコップに波波と表面張力いっぱいにお酒を注ぎ、近くの造船所で働く工員さんが、ピーナッツや缶詰や串に刺さったイカの足などをツマミに仕事帰りに一杯やって、帰るのです。
私が部活から帰ると、いつも丁度お店は一杯飲みのお客さんで溢れていて、(内心今日もいっぱいいるなあとちょっと心憎く思いながら)小さな声で「いらっしゃいませ。」と言いながらお店を通って家の中へ。
もちろん、お客さんはほろ酔心地ですので、「あれ~、お孫さん?!」「まー、ええ体格しとるなあ~。」「こりゃあ、べっぴんさんになるで~。」などど、口々に感想を述べられ、これが本当に何とも苦痛でしたね。
何しろ、恥ずかしがりの真面目な性格でしたから、
造船の街でしたので、街は造船不況の煽りを受け不況指定都市に認定されるくらいの不況でしたが、それを父の頑張りでどうにか乗り越え、私たち兄妹も親元を離れ、その後の量販店やディスカウントショップに街の酒販店はコンビニに移行するところも出てきました。
うちのお店はのんびりと両親のボケ防止程度にやっていました。
祖母は99歳で大往生し、その後店の瓦の劣化が激しく、屋根の葺き替えを期にあっけなく閉店。
大正13年に創業し、平成21年でお店の歴史が終わりました。
部屋を整理してしると、母の描いた絵が出てきました。
69の手習いで母が水彩画を習い始めたのですが、閉店間際のお店の写真を題材に、初心者ながらそれを絵にしています。
藤田家の歴史の詰まった懐かしい我が家。
屋根の葺き替えだけでなく、お店のあったところは老夫婦となった両親が住みやすいようにリフォームされているので、今はすでに昔の面影はありません。
今日はじめて、この絵の題名が記されているのを発見しました。
母はこの絵の題名を「老舗」と名づけました。

昔の実家の絵です。
実家は昔、お醤油を作っていました。
今でも実家の軒下には大きな瓶が埋まっていますし、実家を立て直しする前は醤油つくりの職人さんが寝泊まりしていた小部屋もお店の二階にありました。
戦後は造り醤油屋から小売の酒販店に変わり、すでに私が生まれた時は、創設者の祖父は他界し、父と祖母と母の3人で切り盛りしている昔ながらの酒屋さんでした。
酒屋さんの分厚い前掛けをした父は、毎日木の箱に入ったお酒やビール瓶の箱を軽トラックに積んで配達に回っていました。(勉強ができた父は関西の有名校に入学後、祖父の病気を期に地元から通える国立大学に入学し直し、後で聞いたのですが当時花形のNHKに就職が決まっていたそうです。祖父の病状が悪化したのを期に酒屋を継ぐことになりました。父の二人の弟はまだ東京の大学の学生でしたので、学費と仕送りをしなければいけなかった様です。私が小さい時に、ぽつんと、「指がふとおなったなあ。(太くなった)」と言っていたのを思い出します。)
お店の奥が住居となっていましたので、出入りはもちろん、お店を通らないと家に入れません。
これが思春期の私にとって何とも苦痛でした。
こじんまりとしたお店には木のカウンターがあり、看板おばあちゃんの祖母がコップに波波と表面張力いっぱいにお酒を注ぎ、近くの造船所で働く工員さんが、ピーナッツや缶詰や串に刺さったイカの足などをツマミに仕事帰りに一杯やって、帰るのです。
私が部活から帰ると、いつも丁度お店は一杯飲みのお客さんで溢れていて、(内心今日もいっぱいいるなあとちょっと心憎く思いながら)小さな声で「いらっしゃいませ。」と言いながらお店を通って家の中へ。
もちろん、お客さんはほろ酔心地ですので、「あれ~、お孫さん?!」「まー、ええ体格しとるなあ~。」「こりゃあ、べっぴんさんになるで~。」などど、口々に感想を述べられ、これが本当に何とも苦痛でしたね。

何しろ、恥ずかしがりの真面目な性格でしたから、

造船の街でしたので、街は造船不況の煽りを受け不況指定都市に認定されるくらいの不況でしたが、それを父の頑張りでどうにか乗り越え、私たち兄妹も親元を離れ、その後の量販店やディスカウントショップに街の酒販店はコンビニに移行するところも出てきました。
うちのお店はのんびりと両親のボケ防止程度にやっていました。
祖母は99歳で大往生し、その後店の瓦の劣化が激しく、屋根の葺き替えを期にあっけなく閉店。
大正13年に創業し、平成21年でお店の歴史が終わりました。
部屋を整理してしると、母の描いた絵が出てきました。
69の手習いで母が水彩画を習い始めたのですが、閉店間際のお店の写真を題材に、初心者ながらそれを絵にしています。
藤田家の歴史の詰まった懐かしい我が家。
屋根の葺き替えだけでなく、お店のあったところは老夫婦となった両親が住みやすいようにリフォームされているので、今はすでに昔の面影はありません。
今日はじめて、この絵の題名が記されているのを発見しました。
母はこの絵の題名を「老舗」と名づけました。
