体罰事件から学ぶべきこと | beyondintegrityのブログ

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大阪の高校教師による体罰事件について、

どのように理解し、どう考えればいいのか?

その観点から、考えをまとめてみました。


ーーー言葉の定義ーーー

この記事では「殴打」という言葉を、教師が生徒を殴る行為を表すものとして用います。
「暴力」「体罰」などは言葉の定義があいまいで、解釈が人それぞれで違うためです。

「殴打」についてもニュアンスがないとは言い切れませんが、
あくまで物理的事象を指しているという僕の意図を汲んで頂ければ幸いです。




ーーー痛覚刺激についてーーー

痛覚刺激というのは、人間の知覚の中でも非常に特別なものです。

記憶に定着しやすいため、その後の人生がその刺激によって大きく影響を受けます。

(その記憶から、無意識レベルで影響を受け続けます)


この観点から、

「殴打の行使」の是非

というのは、非常に慎重に検討をしなければならないものです。

(行使者が教育者(親も含む)であるならばなおさらです)


では、どのように検討すべきなのでしょうか?




ーーー「体罰?暴力?愛の鞭?」

この問題がこれだけ話題になり、議論になるのはなぜでしょうか。

そして、なぜ結論が出にくいのでしょうか?



この記事では、本質的な問題点に迫ります。

結論から言うと、

「教師の意図を知っている人間は、その教師本人しかいない」
「生徒が殴打によって矯正されるかどうかを判断することは一般的には困難」
「管理側が『教師の意図』や『生徒の性質・性格』を把握することはできず、行政によるルール化が困難」

という3点が、この問題を複雑にしている大きなポイントと言えます。

以下では、これを詳しく見ていきます。




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コミュニケーションには、送り手と受け手が存在します。

今回のケースでは、

送り手:教師(先輩の場合もあるようですね)
受け手:生徒

となります。


問題となるケースでは、

「コミュニケーション(影響力)の送り手と受け手が固定されている」

ことが構造として存在します。




ーーーー影響力を行使する側としての教師の意図ーーーー

【善の意図】
殴打があるかどうかはさておき、

教師側に「生徒にとっての最善を行う意図」がある場合、

その意図自体は肯定されるべきでしょう。



その場合は、殴打をするかしないか、という判断が議論の対象になり、

生徒がどういう人間か、というのがポイントになります。
(生徒側については後述します)



【善でない意図】
教師側の真の配慮のない独りよがりな教育観、

最悪なのは衝動的な怒りや過去の教師自身の人生に対する腹いせなど、

教師側の「生徒にとって有害である(有益でない)意図」である場合は、

その意図は完全に否定されるべきでしょう。


そういった意図を持つ輩には、教育者としての資格が一切ありません。

人事制度とその運用によって、善でない意図を持つ教師をできるだけ排除する必要があります。



ーーーー影響を受ける側の生徒ーーーー


一つの状況を仮定してシミュレーションしてみます。

--仮定--
生徒が将来のために自分の考え(≒行動)を変える必要があるとします。
教師がそれを的確に捉え、生徒に改善を促す必要を感じたとします。
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ここで教師には選択肢があります。

(A)何もしない
(B)言葉などのコミュニケーションによって説得する
(C)殴打によって説得する


(A)および(C)は、選択するのが容易です。

(B)は、スキルを要します。



もし説得する意図があるのであれば、
生徒とのコミュニケーションによって解決を図ります。


生徒の性質によっては、たやすく説得ができることもあるでしょう。
聞き分けがよく、生徒が成長したいと素直に思っているのであれば、
その説得が信頼関係の強化にもつながります。


あるいは、非常に説得が難しい生徒も存在すると思います。
教師側に対して破壊的意図を持つ生徒が、少なからずいるでしょう。

破壊的意図を持つ相手に対し、言葉などの(殴打でない)コミュニケーションによって説得を行い、
効果的な変化を受け手にもたらすには、相当な熟練が必要です。


日本の教育をとりまく環境においては、
熟練した教師が少ないという状況はすぐには改善できません。

教師の数が足りないのも一因でしょう。
密なコミュニケーションによる信頼関係を築くことが難しいという状況にもなりがちです。

ここに一つのジレンマを社会は持っているのです。


結果的に、(B)では説得に成功しないため(C)を取ってしまうというということが
往々にしてあるのだと考えられます。

安易な選択、あるいは熟慮の上での選択、いずれにしても、

その生徒に対するコミュニケーションの総合能力に
欠陥があった結果でしょう。



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さて、ここまでで

・教師側の意図が大事であること
・生徒側にも破壊的意図を持つ者がいること
・矯正するのに必要なコミュニケーション能力は不足しがちであること

という点を見てきました。


これは、「体罰を禁止するべきか?」という質問から始まった考察ではありますが、
そのような単純な質問で答えを導きだすことができない、複雑な問題なのです。

ただ法律で「体罰は禁止」とすれば片付くような生易しい問題ではない。

現場ではいじめも発生し、それによる自殺も後を絶ちません。
一方で体罰によるトラウマの数々も、きっと今もどこかで生まれているでしょう。

「体罰を禁止するべきか?」という問いに、答えはないのです。



また、下記のような、構造的な問題が浮かび上がってきます。

・教師を監督する側のマネジメント能力の欠如
・監督側への教育体制の欠陥
・ルール至上主義の失敗(ルールさえあれば全部うまくいくと思ってしまう短絡的観念)

この問題は、一地方自治体の問題でもなく、
立法だけの問題でもなく、

国家としての総合力が問われているのだと思います。

人として社会に生きている以上、子供の教育ということに関しては
全ての人が関わり、考えていかなければならない問題です。




◆解決策としては、次のような施策が考えられるでしょう。

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(1)効果的なコミュニケーション能力を教師にもたらす教育体制の整備

教育制度を根底から見直す必要があるでしょう。
コミュニケーション能力は一朝一夕で身に付くものではなく、
身に付いていない人が教師になっている現状を考えれば、

何世代にも渡って教育を改革していく、という覚悟とリーダーシップが必要です。


(2)破壊的意図を持つ人を出来る限り減らす社会を作る

基本的な倫理教育、
建設的自己愛を育み、破壊的意図から自分を守るための知識教育、
建設的意図を持つ人が報われる経済制度および経済教育、

といったものを導入し、変革をもたらす必要があります。
これも何世代も、何百年もかけて実施していくものでしょう。


(3)マネジメント能力・リーダーシップ能力の底上げ

マネジメントに関する教育が圧倒的に不足しています。
その背景として最も大事な「真摯さ」「誠実さ」について、
またマネジメントを行使するためのスキルについて、

特に監督側に対する教育が必要でしょう。

これには人事のコントロールも含まれます。

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この事件は、社会の歪みが露出した、数多くの事件のうちの一つです。


特に「真摯さ」「誠実さ」といった概念の欠如がもたらす
様々な憂慮すべき出来事が発生しています。

自殺、貧困、企業の不祥事、詐欺、衝突、暴力、、、



様々な問題意識を持つきっかけになるのではないでしょうか。
そのきっかけから、何らかの努力や熟考、行動をしていく必要があるのではないでしょうか。