東京高輪の泉岳寺にお参りしました。
泉岳寺と言えば、お馴染み「忠臣蔵」で有名で、赤穂藩主の浅野内匠頭や大石内蔵助を始めとする赤穂義士のお墓があります。
泉岳寺はもともと、慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建した曹洞宗のお寺です。当初はかなりの規模の寺院だったそうですが、寛永の大火で焼失してしまい、その後、徳川家光の命で現在の高輪の地に再建されました。そのときに再建を託されたのが、毛利氏、浅野氏、朽木氏、丹羽氏、水谷氏で、これらの大名が泉岳寺を菩提寺としたわけです。
元禄14年(1701年)に赤穂事件が起こります。
勅使饗応役を命じられた浅野内匠頭が、儀式・典礼の指南役であった吉良上野介のいじめに耐えかね、江戸城内松の廊下において刃傷沙汰に及んだ事件です。斬りつけた浅野内匠頭は即日切腹の命令が下りましたが、一方の吉良上野介にはお咎めなし。喧嘩両成敗の原則とは異なる幕府の決定に憤慨した赤穂藩士が、紆余曲折を経て翌年の12月14日に雪の降るなか吉良邸に討ち入りし、見事に主君の仇を討つという日本人ならほぼ誰でも知っているストーリーです。
討ち入り後は泉岳寺に引き上げ、浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を捧げ、幕府の沙汰を待ちますが、結局は全員切腹ということになります。
藩を現代の会社に例えると、会社の社長が怒りに耐えきれずに「きれて」しまい、殺人未遂事件を起してしまった。その結果、会社が倒産してしまい、社員が路頭に迷う羽目になったという感じですね。実際、事件の報に接した国元の藩士たちは、「マジか~」と途方に暮れたはずです。そういう意味では、浅野内匠頭はどんな理由があったとしても藩主としては失格ですね。
この赤穂事件を題材にしたのが「仮名手本忠臣蔵」ですが、江戸時代からいつも大入りで、現代でも「忠臣蔵」は何回も映画化、ドラマ化され毎度大人気です。どうして、こんなに日本人の心を惹き付けるのかという「忠臣蔵論」が展開されますけど、やはり、耐えに耐えて最終的に本懐を遂げるが、最後は死んでしまう(ハッピーエンドではない)という、日本人が大好きな展開だからだと思います。更には、権力に立ち向かう姿というのも格好良く写ります。反権力が民主主義というわけではありませんが、日本人には昔からそういった目線があったのだと思います。
当時、マスメディアがない時代に、どうやってこの事件は伝えられたのでしょうか?
ドラマでは、本所の吉良邸から泉岳寺に隊列を組んで向かう途中、民衆から「あっぱれ」の拍手喝采を受けるシーンがありますが、そんな事は実際にはなかったと思います。
事件の翌年からは赤穂事件を題材にした演劇はちらほら行われていたようです。それでも、普通の民衆にこの事件が知れ渡ったのは、事件から40数年後の「仮名手本忠臣蔵」からかもしれません。しかし、それでも幕府を恐れて、時代設定は室町時代にして、登場人物は実名ではなく、フィクション性を高めていました。堂々と大石内蔵助とか吉良上野介といった実名を使っての演劇公演は明治以降のことです。
このように非常に人気のある赤穂浪士と縁のある泉岳寺なので、さぞかし立派なお寺なのだろうと思っていたら、意外に規模はそうでもなかったので、やや拍子抜けしました。
赤穂事件が起こり、やはり公儀に刃向かったということで、浅野家以外の菩提寺としていた大名が幕府に忖度して離れたりするなど、実際のお寺の経営は厳しかったのかもしれません。また、有力大名である細川家や島津家とも問題が起きて仲が悪かったようです。
泉岳寺では御朱印をいただく際には、ちょっとした写経をしなければなりません。自分の好きな言葉「色即是空 空即是色」と書いて、御朱印を授かりました。討ち入りをした真冬ではなく、真夏の参詣でしたが、写経をしているときには不思議と涼しい風が吹いてきました。