香取神宮(千葉県) | yampoo 御朱印集めの旅 

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御朱印を集める旅を始めました。

昨年の1月に香取神宮に訪れたときは、千葉県にしては珍しく大雪が降った数日後だったものですから、登り坂の参道がツルツルに凍っていて、歩くのに難儀したのを覚えています。

今回は3月の春の陽気に包まれた日にお参りすることができました。

 

延喜式の神名帳では、「神宮」という名を許されているのは、伊勢神宮、鹿島神宮と香取神宮の3社のみです。それだけ、古代においては格式の高い神社だったと言えます。

鹿島・香取神宮は利根川下流の右岸と左岸に位置し、距離的にも近いものですから、ちょうど伊勢神宮の内宮と外宮のような1対の神社として語られることが多いです。

しかしながら、実際に行ってみると、鹿島神宮が平地の大きな森の中にあるのに対して、香取神宮は亀甲山と呼ばれる丘陵上に建てられており、趣を全く別にしているという印象を受けます。両社に共通するのは、地震を抑えるための「要石」があるくらいです。

 

鹿島神宮も香取神宮も大和朝廷が東国支配を進めるうえで拠点としていたという説が一般的です。

しかしながら、そもそも鹿島・香取神宮があるこの水郷地帯こそが高天原であって、「国譲り」、「天孫降臨」、「神武天皇の東征」の物語を経て、日本の中心が大和地方に移ったという説も一方であります。

 

香取神宮の御祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)です。「ふつ」というのは刀剣で物が断ち切切られる様を表わしており、刀剣の威力を神格化したものです。

経津主神は古事記では現われません。日本書紀においては、鹿島神宮の神様である武甕槌神(たけみかつちのかみ)とともに出雲に遠征し、「国譲り」を成功させます。

実際の戦闘の場面では、武甕槌神の活躍が大きく描かれているので、経津主神はちょっと影が薄い感じがするのですが、日本書紀の記述では、遠征にあたり経津主神が「主」で、武甕槌神の方が「従」だとされています。いずれにせよ、両神とも武神・軍神であることは間違いありません。

 

ところで、鹿島・香取神宮とも中臣氏(藤原氏)の氏神とされているのですが、実はもともとは、特に香取神宮の方は物部氏と関係が深かったようです。時代が下って物部氏の力が衰退した後に、中臣氏がそれに取って代わり、両社を自分の氏神にしたというのが定説になっています。

物部氏は主に軍事を担った豪族ですので、出雲征伐を任されたという点で非常に納得がいきます。

この「国譲り」の仕事のリーダーを誰にするかで、どうも天照大神は鹿島の武甕槌神を、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は香取の経津主神を推したような節があります。

御産巣日神は古事記にはちょっとしか現われませんが、実は天照大神以前の皇祖神ではなかったかと考えられています。

 

天照大神の直系である瓊瓊杵尊は日向国に降臨します。しかし、これとは別に物部氏の祖とされる邇芸速日命(にぎはやのみこと)は河内国に降臨し、のちに大和に移動します。

瓊瓊杵尊の子孫である神武天皇が九州から東征して、物部氏が実質治めていた大和に最終的に入るわけですが、こうして見ると、高天原側の最初の中つ国統治プランに関しては一貫性がなく、一枚岩でもなかったような気がします。

ということで、香取神宮は鹿島神宮とは全く別の存在であると思っています。