陽明学とは何か?1.陽明学の誕生 | 山田光復のブログ

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経営コンサルティング会社株式会社ベストフォーチュン代表のブログ

 

<本日のメッセージ> 

『心静かにじっくりと考えなさい。』易卦:沢火革 初爻

自分の心に感じたもの、頭で閃いたものが、天からのメッセージです!

※このメッセージは

『マーフィー博士の易占い  (王様文庫)』の易経解釈から引用させて頂いています。

 

<奇門遁甲:開運方位>  

9月08日 北

9月09日 東

9月10日 北東

9月11日 東

9月12日 東

9月13日 北

9月14日 北西

※開運方位を活用下さい。運のポイントが貯まります!

 

 

<本日の活動予定>

■リモートワークin横浜

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<本日のつぶやき>

イザ!という時は心の発露に従うものです。

心が欲するものが価値観とすれば、価値観は重要であることは間違い無いが善悪や是非を議論するものでもない様です。

ただ、イザという場面で本性は出るものです。

 

 

<イベント・セミナー情報>

9月14日 内閣府認定NPOjfta定例勉強会

9月15日 『経営帝王学講座』in大阪

9月27日 『命名術』in札幌

9月30日 『開運合宿in能登』

 

 

<ワンポイントレッスン>

■陽明学とは何か?1.陽明学の誕生

 

『遅れていた朱子学の実践的理解』

 

 朱子が亡くなったのは西暦1200年、南宋の末期で元による中国の全土制覇より前のことになります。

 

この頃、朱子学はまだ儒学において、支配的な位置にはありませんでした。

その上、朱子の晩年には、「偽学の禁」がおこって道学(=朱子学)は偽学と呼ばれ、道学の学徒は官界から一掃されそうになるという受難に遭遇していました。

 

しかし元代(1234-)に入ると、南方では既に学会の主流になっていた朱子学は、許衡、劉因の2人により北部にまで広められました。

 

そして1314年に元朝が久しく止めていた科挙を再開した時には、その科挙の学科として「四書」が立てられました。その際、四書の注釈には朱子の「四書集注」が用いられることになり、さらに、中国の政治体制は、1368年以降、元に代わって明代に入り、その時には、儒学は朱子学一色に成っていたといわています。

 

しかしその頃の思想界はきわめて沈滞しており、朱子学は科挙の学科になったために、その精密さや難解さが仇となり、その内容の充実よりも形式化が進んだことが、学問としての朱子学の不幸であったといえます。

 

明代最初の思想家であった陳白沙は、実践主義の権化と言われる人物であり、朱子学の学者でした。彼は、日々、読書にふけり寝食を忘れて道を追求したが、ついに得るところがなく、「わが此の心とかの理」とがどうもぴたり一致しませんでした。

その結果、静座による思索を採用して、「随所に天理を体認する」学説を発見したといわれるほどでした。

 

つまり朱子学は、それが実践される中で、いろいろ矛盾がでてきました。

その矛盾が表面化した代表ともいえるものが、王陽明によって作られた陽明学の登場です。

 

 

陽明学登場の背景に朱子学の矛盾があるといえます。