バギオと日本の深イイ歴史♪ | フィリピン留学なら、断然バギオ!

フィリピン留学なら、断然バギオ!

フィリピン留学といえばセブ・・・だけではありません。日本と同じくらい治安がよく、評価の高い学校が多いことで注目を集めるバギオ。人気の語学学校と語学留学に役立つ情報を紹介していきます。

日本と関わりの深いバギオ。
それを象徴するケノンロード展望台に行って来ました。


フィリピン留学 バギオ英語学校協会 BESA


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アメリカがフィリピンを統治していた時代、ケノン大佐がマニラとバギオを結ぶ道路の建設を実施。
しかし、標高1,500メートルの奥深い山での作業は困難を極めました。
困り果てたケノン大佐は、当時から真面目でよく働くと評判だった日本人を労働者として呼び寄せました。
当時は、日本人が海外に出稼ぎに出ていた時代。日本人の出稼ぎ労働者の方々は、前評判通り、大活躍。
特に難しい仕事を任されたそうです。しかしその分たくさんの方が亡くなられたそうです。
こうして、フィリピン人、アメリカ人やその他各国から来た出稼ぎ労働者たちと協力し、ケノンロードが完成。

ケノンロード完成後、多くの日本人労働者は帰国せず、バギオに定住しました。そしてフィリピン人と結婚し、
家庭を築いたそうです。これが日系人の始まりです。

今現在もバギオの目抜き通りであるセッションロードには、当時、日系人経営のお店が軒を連ねていたそうです。

しかし、第二次世界大戦が日系人の方々の生活を一変させます。
アメリカと敵国の立場だった日本。アメリカ統治下にあったフィリピンとも敵国という立場になってしまいます。
バギオも激しい戦闘が繰り広げられた地の一つです。
日系人は、父の国日本からも母の国フィリピン(アメリカ)からも敵扱いされ、非常に辛い立場に置かれます。
また戦時中に日本軍から残虐行為を受けたフィリピン人たちの日本への憎しみは深く、バギオにいられなくなった日系人は、
戦後も日本名を捨て、日系人であることを隠し、山奥に逃げ、ひっそりと身を隠しながら暮らしていました。
当然、教育も受けられず、職にもつけないので、彼らの生活は貧困を極めたものだったそうです。

そんな中、シスター海野という日本人のシスターが彼らに助けを差し伸べます。
その頃、すでに戦後約30年が経過していました。

シスター海野は、山の奥に隠れるように暮らしていた日系人の家庭を1軒1軒訪れ、もう大丈夫だと説いて回ります。
そして、比日友好協会を設立、日系人たちが集えるように「アボン」という会館も建設します。
当時、彼らにどんな助けが必要かシスターが聞いたところ、自分たちが貧乏なのは構わないが
子どもたちに教育を受けさせたいと言ったそうです。
そこで、比日友好協会では、奨学金制度を始めるなど様々な活動を行いました。
奨学金制度は日系人の子どもたちに限らず、フィリピンの子どもたちも対象にするなど、
日系人の支援だけではなく、フィリピン人の生活向上にもご尽力されたそうです。

その比日友好協会の行った活動の1つが、ケノンロード展望台の建設でした。
この展望台は、比日友好のシンボルであり、日系人の皆さんにとって展望台の建設は
とても重要な意味を持っていたと思います。

フィリピン留学 バギオ英語学校協会 BESA


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比日友好協会は、シスター海野亡き後も、現在に至るまで、その活動を継続されています。

こういった先人たちのご尽力もあり、今では、バギオと日本は友好関係を築くことができています。
そのことに改めて感謝します。

バギオに来られたらぜひ訪れ、また、その背景を伝え継いでいってほしい場所です。


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