
先日、劇団『東京イボンヌ』の第5回公演
『無伴奏』を観ました。
「シューマンに関すること」
「午後の銀河」に続き 今回で3度目

劇団のコンセプトである
クラシック音楽と演劇との融合
共有するバッハの「無伴奏」の旋律・・・
解釈を強要しない柔軟なストーリーと舞台設定。
訪れた観客達は
個々にさまざまな印象(色)を抱きながら
会場を後に帰宅したのではないでしょうか。
今回の舞台では 特にそんな想いを持ちました。
演劇って面白いですね。
「あらすじ」を話しても その舞台を語ったことにはならないし
演じる役者 音楽 舞台美術 照明 その日の観客によってさえも
違ったものになりそうです。
「自由に楽しんでください」「自由に解釈してください」
「皆さんの心のなかになんらかの形で残れば・・」などと云うものの
「これを言いたかった」「これを表現したかった」
「これは大事な台詞なんだ」というものは
必ずある筈で
でも主催者からは説明したくないもので
(舞台を通して感じるものだから)
決して教えては貰えないだろうけれど
こっそり聞かせてもらいたい気もします。
小説などを あとがきから先に読むひとが居るように
ひとの秘密って ちょっと知りたい

前宣伝で謳われている「過去に生きる男と未来を見続けた女」というのは
キャッチフレーズっぽいけれど
「時間」というのは キーワードのひとつなのだろうと思いました。
ついでなので イボンヌさんのサイトから
ストーリーをそのまま引用しておきます。
長野の山奥深いペンションに世界的なチェロ奏者がやってきた。
彼女は12年前のアルバイトであり、ペンションのオーナーの「3ヵ月限定」の恋人であった。
「住む世界が違うの。ここいにる3ヵ月だけよ。それでもいいの?」
気晴らしにアルバイトでやって来た貴子、ここでの生活しか知らない圭。
そして3ヵ月が過ぎ、彼女は去った。未来を見続けるために。圭はその過去だけで生きようと思った。
そして12年後、突然貴子がやって来た。
ここから
特に私個人の話になるのですけれど・・・
わたしの引っ越し歴は多くて 現在の家で16回めになります。
生まれたころ ものごころつく前のころ 幼稚園 小学校・・・
その時代(時間)ごとに住んでいた場所が違います。
そんなわけで過去を思い出すたびに場所を思いおこすのです。
「その頃に住んでいた場所にいけば その頃の時間に会える!」
そんな錯覚を ついつい持ってしまうのでした。
今回の舞台『無伴奏』のヒロイン貴子が
突然ペンションに帰ってきたときも
もしかして 私と似たような錯覚を持ったのでは?
などと思ってしまいました。
つまり「(12年前の)時間に会いに来た」と。
一見 思い出をひきづりながら ペンションを経営しつづける
オーナー圭は過去に生きる男にみえます。
しかし戻って来たのは貴子の方で
圭は 変わらぬ場所に住み続けながらも「今」を生きています。
一方 貴子が居た華やかで明るい場所は
貴子にとっては「現実」そのものであり
貴子にとってペンションは「非日常的な場所」であったでしょう。
お互いが再会することなく それぞれが望んだ現実のなかで
奏で合うことなく(無伴奏で)
それぞれの住む場所で生き続けていけたなら
むしろ幸せだったのかもしれません。






