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berobe 映画雑感

「 映画 」と「 本 」の感想

 

 

 

残りの ノンフィクション。

 

 

 

「 死の貝 日本住血吸虫症との闘い 」

小林照幸

 

疫病 & 生物 & 医療 & etc.…・ノンフィクション。

 

ノンフィクション、今年も 2冊 読む予定だったけど ムリっぽい…。

 

 

古来から 山梨、広島、福岡で 発生している、腹に水が溜まって 膨らみ、やがて 死に至る 謎の「 地方病」( 風土病 )。

 

その病の原因として「 寄生虫 」が疑われるが……。

 

 

 

タイトル通り、

 

「 日本に生息する 寄生虫、“日本住血吸虫” による病と 対策 」

 

の話ですが「 ある貝が ほぼ絶滅させられる 」話でもあります。

 

 

ちなみに この「 日本住血吸虫症 」、

ネットでは「 WIKIの3大文学 」と言われているみたいですね。

 

本書は チョット前に「文庫化」された際 話題になりましたが、

 

個人的にも 昔、真梨幸子の小説『 孤虫症 』を読んでから

「 寄生虫 」にも 興味を覚えていたので 気になってました。

 

 

で、読んでみたんですが「 寄生虫病 」の正体を探る「 医師たちの献身と 奮闘 」は 予想を超えて アツく、感動も覚えたし、

 

今にも通じる「 地方格差 」や「 日本の歴史 」の要素もあったりで 面白かったです。

 

前に読んだ ノンフィク、

 

『 世にも奇妙な人体実験の歴史 』

( 寄生虫の話もある。 タイトルに反し? 真面目な内容 )

 

『 蚊が歴史を作った 』( マラリア原虫 )

 

と 通じるところも ありましたよ。

 


始めに 寄生虫「 日本住血吸虫 」の 生命サイクルを サクッと

紹介。

 

まあ、ネットで検索した方が 早い気がするけど…。

 

 

「 終宿主 」の糞便と共に 水中に放出された「 卵 」が 孵化、

 

繊毛のある「 ミラシジウム 」になり 中間宿主である貝、

「 ミヤイリガイ 」( 長さ 6~8mm )の体内へ。

 

貝の体内に入った ミラシジウムは成長し「 スポロシスト 」に。

 

その「( 母 )スポロシスト 」の体内に さらに 多数のスポロシスト、「 娘スポロシスト 」が形成される。

 

その後「 母スポロシスト 」を破り出た「 娘スポロシスト 」は 体内に 多数の「 セルカリア 」( 雄雌がある幼虫 )を形成。

 

「 セルカリア 」もまた「 娘スポロシスト 」から出て さらに

「 ミヤイリガイ 」からも出て 水中へ。

 

セルカリアは 水中を泳ぎ「 終宿主 」である哺乳類( 犬、猫、牛、人間 )を見つけ その皮膚から体内に侵入※して 成虫に。

 

( ※「 経皮感染 」  タンパク質を溶かして 侵入する )

 

体内で出会った 雌雄のセルカリアは 抱き合い「門脈」( 小腸、大腸 など )へ寄生し 吸血、そして 産卵…。

 

「 腹水 」になって お腹が膨らむのは 血流に乗った「 卵 」が 肝臓に溜まって※ 詰まるから。

 

( ※ 肝臓は 肥大した後「 肝硬変 」に。

あと、ごくまれに「 卵 」が「 脳 」に行く事も )

 

それと、子供の頃に 感染すると、血( 栄養 )が吸われる事に

より「 成長が阻害 」されたりもします。

 

ちなみに、1匹の ミラシジウムから 数千匹のセルカリアが

誕生するみたいですね。

 

 

という事で「 各章 」を かいつまんで 紹介。

 

 

第1章「 死体解剖御願( おんねがい )」

 

山梨県の甲府盆地に 古来からある “腹が膨らむ” 奇病「 水腫

張満 」( すいしゅちょうまん )。

 

広島にも 農家の家庭が多く罹る、似た症状の「 片山病 」があった。

 

弘化の時代、漢方医の藤井好直( ふじい こうちょく )が

その片山病の 情報や 知識を募るため「 片山記 」として記したが 反響は無し。

 

30年後、好直は 再び筆を取るも ここでも 反響は無かった…。

 

明治19年に 行われた 徴兵検査により 山梨に「 体格不良者 」が多い事に気付く。 

 

中には 子供の体格のままの 17、18歳の少年もいた。

 

糞便調査の結果「 寄生虫の卵 」が発見されるが、この時は

「 十二指腸虫 」と結論が付けられる。

 

日本に 西洋医学が入っていたが 奇病は謎のまま。

 

その正体を知るために 亡くなった患者を「 解剖 」したいが

遺族の了承は なかなか得られない。

 

そんな中、明治29年、診察に熱心な 吉岡順作( よしおか じゅんさく )の患者、杉山なか が解剖を願い出る。

 

杉山なかは 一族と共に「 死体解剖御願 」を作成、県病院に届けられることに。

 

杉山なかの死後、解剖が行われるが 多くの「 寄生虫卵 」は見つかったものの「 虫体 」は 見つからなかった。

 

 

 

第2章「 猫の名は “姫” 」

 

その後も 人体から「 卵 」は 見つかるが 虫体は発見されず。

 

岡山の病理学の教授、桂田富士郎( かつらだ ふじろう )は

「 卵 」の形態から「 住血吸虫 」の卵と仮定、

 

さらに「 ビルハルツ住血吸虫 」のような 雌雄同体ではなく、

「 雌雄異体 」ではと推測する。

 

そこから さらに 人間以外の家畜( 犬、猫、牛 )にも寄生する「 人畜共通感染 」を疑う。

 

甲府の開業医、三神三郎( みかみ さぶろう )のもとを訪れた 桂田三神に「 野良犬か 野良猫を解剖したい 」と申し出る。

 

しかし、三神が用意したのは 病の疑いがある 飼い猫の “姫” であった。

 

桂田は その申し出を受けて “姫” を解剖、詳しく調べるために

その臓器を持ち帰る。

 

後日、その臓器を調べた 桂田は「 門脈 」から 湾曲したミミズ状の虫体を発見、

 

その後、東京大学・理学部の教授、飯島魁(・いさお )の見解により 未発見の住血吸虫らしいとわかる。

 

広島で「 片山病 」患者の遺体を解剖するも 虫体を発見できずに「 腹切り医者 」と陰口を たたかれている 開業医・吉田龍蔵

 

桂田の虫体発見から3日後、吉田も「 殺人事件 」の遺体を解剖し「 雌の寄生虫 」を発見する。

 

 

陰口たたかれている 吉田医師が切ないんだよな…。

 

あと ここの「 殺人事件 」、鎌らしきモノで 首、胸、背中を

えぐり切られる、という凄惨な事件で フツーに怖いです。

 

しかも、その後 どうなったのかの記載も ナイんですよね…。

 

 

 

第3章「 長靴を履いた牛 」

 

虫体が見つかったが「 感染経路 」は不明。

 

大方の予想は「 経口感染 」であったが 足に「 かぶれ 」の症状が出る( 漆や 肥のせいにされていた )事もあり「 経皮感染 」を疑う者も。

 

京都帝国大学の藤波鑑(・あきら )の グループが

 

「 経口対策をした牛」、「 経皮( 防水 )対策をした牛 」、

「 そのままの牛 」の組み合わせの 4つのグループを作り 感染実験を行う。

 

一方、桂田も 犬と 猫1匹を「 経口感染 対策させる 」実験を

開始する。

 

「 経口感染 」を支持する 桂田の予想では 犬と猫は感染しないはずであったが、結果は 2匹とも 感染。

 

藤波の方でも「 経皮感染の予防をした牛だけ “感染なし” 」との結果が出る。

 

それを受けて 流行地に「 水に入るな 」「 行水、洗濯も 煮沸した水で 」と啓蒙するが めんどくさいため 実施は徹底されず。

 

そんな親たち子供たちには「 川遊び 」どころか「 農作業の手伝い 」すら禁じるのであった。

 

親たちの中には「 子供に 農業をやらせない 」という者もいたようだ。

 

「 経皮感染 」だと 分かったため、次に「 卵 」から孵化して

生まれる 幼虫「 ミラシジウム 」を「 動物に寄生させる 」実験を行うが 寄生せず。

 

そこから「 中間宿主 」がいるとわかり「 中間宿主 」探しが

始まる。

 

しかし、流行地の川にいる 魚、昆虫、貝を 片っ端から採取して

解剖するも その体内から ミラシジウムは 見つからず…。

 

大正元年( 1913年 )の暮れから、九州帝国大学の教授、

宮入慶之助( みやいり けいのすけ )と 助手の 鈴木稔

 

流行地の筑後川へと赴いて 調査を行っており「 中間宿主 」探しもしていた。

 

2人は 小集落で「 入ると必ず “肥まけ” する 」という溝渠、

「 有毒溝渠 」の情報を得て そこへ向かう。

 

その溝渠に ハツカネズミを浸して 経過を見ると、2日目で 重篤な感染を示し、3週間後には 死んでしまう。

 

「 有毒溝渠 」に 中間宿主がいると信じた2人が 柄杓で 溝渠をすくってみると 小さな「 巻貝 」が大量に入っていた。

 

さっそく 採取した貝に ミラシジウムを近づけてみると 貝の中へと入り込む。

 

だが、貝の体内で「 変態 」して「 セルカリア 」が出てこなければ 中間宿主とはいえない。

 

小さな貝は 解剖ができなかったため、2枚のガラスで潰して

そのまま 顕微鏡で 内部を観察することに。

 

それにより、ミラシジウム → 母スポロシスト → 娘スポロシスト → セルカリア と 変態すること、

 

さらに 貝から出て来た セルカリアが ネズミに寄生したことで その貝が 中間宿主だと判明する。

 

その貝は 新種だったため 発見した 宮入教授から名を取って

「 ミヤイリガイ 」と名付けられる。

 

さらに 恐縮した 宮入が「 片山記 」に 敬意を表して「 カタヤマガイ 」を提案したため 両方で登録することになる。

 

「 中間宿主 」発見を受けて 探してみると 至る所に ミヤイリガイがいることがわかった。

 

1匹のミヤイリガイから 何千もの セルカリアが 生まれる事から

ミヤイリガイを根絶する話が出始める。

 

「 殺貝剤 」( さつばいざい )の研究も 開始されるが、

取り敢えず「 箸と椀をつかって 貝を採取する 」方法が 試されることに。

 

後に 採取した量に応じて お金が出るようになるが ミヤイリガイの繁殖力は高く、まったく減らなかった。

 

1918年、広島で 藤波が考案した「 生石灰 」( 酸化カルシウム )散布による「 殺貝 」が始まる。

 

啓蒙活動も進み、

 

『 俺( わし )は 地方病博士だ 日本住血吸虫の話 』

 

というパンフレットを 小学生に 配布したりもしていた。

 

 

 

第4章「 病院列車 」

 

治療薬として「 アンチモン 」を使用した「 スチブナール 」が開発されるが、人体への臨床はされておらず。

 

希望者を募って スチブナールを投与( 一日おき、病状によって 複数回の投与 )をすると、

 

嘔吐や 悪心などの副作用があったものの「 寄生虫卵 」は 消えており 実用化されることに。

 

広島では 殺貝により 患者数が減少、山梨でも 1925年から

「 生石灰の散布 」を実施するが 徹底されておらず、散布を止めたため 元に戻ったところもあった。

 

「 生石灰 」の高騰( 石灰窒素に切り替えた )や 戦争の影響で 殺貝が滞ることも。

 

治療薬の スチブナールにも「 肝臓障害 」の副作用が見え始め、中には 中毒で 死亡する事もあった。

 

1937年、医療活動を行う 岡部浩洋(・こうよう )は 佐賀県で ミヤイリガイの分布を調べた際、「 コンクリートの溝渠 」に ミヤイリガイがいないことに気付く。

 

さらに 実験により 水の流れが速いと ミヤイリガイが産卵できない事もわかってくる。

 

「 コンクリート溝渠 」に ミヤイリガイがいなかったのは

コンクリート化することで 水の流れが速くなるからであった。

 

後に これを受けて 流行地の溝渠の「 コンクリート化 」が進められる事になる。

 

 

終戦後、GHQが「 殺貝 」に協力することに。

 

アメリカは 太平洋戦争中、レイテ島において「 マラリア対策 」はしていたが※、「 日本住血吸虫 」の対策はしておらず 苦しめられた経験があった。

 

( ※ 日本は マラリア対策もしてなかったため ボロボロに。

この話は『 蚊が歴史を作った 』にもあります )

 

その アメリカが使用していたのが、魚も 大量に殺してしまう

ほど 強い毒性を持つ「 PCPナトリウム 」。

 

対策が遅れていた 佐賀と 福岡で モデル散布が決まり、

 

昭和25、26年に 久留米市の長門石町で PCPナトリウムの散布が行われる。

 

その効果は てきめんで 長門石町の ミヤイリガイは 全滅。

 

山梨、広島も 石灰窒素から PCPナトリウムへ切り替え。

 

その他にも「 火炎放射で 焼き殺す 」方法※も 取り入れられることに。

 

( ※ ミヤイリガイは「 水陸両性 」なため 陸にもいる )
 

章題の「 病院列車 」は、GHQが使う施設が 手狭だったため

使われていない 機関車を「 研究所 」兼「 病院 」に改造した話から。

 

 

 

第5章「 毛沢東の詩 」

 

1955年、寄生虫を研究している 佐々学( さっさ まなぶ )は 寄生虫学の代表として 医師団メンバーに加わり 訪中。

 

中国総理・周恩来医師団の会談が行われることになるが、

 

周りが権威のある人ばかりのため 佐々は自分に 出番はないと思っていた。

 

しかし、は 内容を変更して「 血吸虫症 」の話題を提案、

唯一 寄生虫に詳しい 佐々に 白羽の矢が立つ。

 

双方 意見を交わし 会談は終了、その後 佐々は 別行動で 中国の現状を見学することに。

 

中国でも「 日本住血吸虫 」の被害が多く出ており、耕作者が

いなくなったため 集団自殺し、消滅した村もあった。

 

日本は 翌年にも 中国に視察に行き、意見を交換。

 

 

その日本では「 溝渠コンクリート化 」の効果が表れて 来ていたが「 コンクリ化 」自体は まだ 一部。

 

しかも、山梨では 丘陵が多く その効果が 得られないことも

わかってきたため、模索の末「 水田をやめる 」案が出てくる。

 

1952年、山梨は「 養蚕 」のために 水田を「 桑園 」にするが、しばらくすると「 繭 」の価格が頭打ちになったため、

 

次に ブドウや 桃などの「 果樹 」の作付けを 始めることに。

 

そこで取れた ブドウを使い ワインも作られることとなる。

 

 

一方 中国では、

 

「 治療薬の投与 」、 石灰・砒素石灰など※ による「 殺貝 」、

 

「 コンクリート化 」、「 人海戦術による貝の採取 」、「 土地の焼却 」が 効果を発揮、

 

1958年「 人民日報 」で 江西省余江県での「 住血吸虫症 」の根絶が発表される。

 

( ※「 PCPナトリウム 」は 使用せず。

アメリカの特許なので 使いたくなかった )

 

まだ 一地域だけであったが、毛沢東は その心情を「 ソウウェンスン 」※と題した「 詩 」としてまとめるのだった。

 

( ※ 漢字変換メンドイ  意味:疫病神を送る )

 

 

 

第6章「 果てしなき謎 」

 

福岡と 佐賀でも 河川敷を「 ゴルフ場 」や「 テニス場 」に変えることで ミヤイリガイの棲息域をなくしていた。

 

さらに「 農業の機械化 」により 家畜への感染も減る事に。

 

ミヤイリガイが 少なくなったことで 感染しても 自然治癒する者も多くなる。

 

しかし、都市部と違い 学校に プールのない 山梨の子供たち

依然として 河川で泳いでいるという 問題も。

 

 

自然環境や 薬の安全性にも 目が向くようになり、毒性の強い

「 PCPナトリウム 」は消え、

 

感染予防の塗り薬「 ベンレート 」も「 発ガン性 」が指摘され

使用禁止に。

 

副作用が強かった 治療薬の「 スチブナール 」にも ようやく

「 プラジカンテル 」という代替品が現れる。

 

平成になると「 日本住血吸虫症 」を知る者も 少なくなり、ミヤイリガイも まだ 棲息していたものの 地域は 限定的であった。

 

平成2年、佐賀と 福岡で 大規模な棲息調査を行うが ミヤイリガイは 見つからなかったため、

 

翌年「 ~ 8年間以上、ミヤイリガイがいないこと 」の基準を満たしたとして 式典が開かれ「 安全宣言 」の声明が出される。

 

広島でも 平成3年に「 ~ 終息報告書 」として 冊子に まとめて

関係者に配布し 区切りを付ける。

 

残る 山梨も 平成8年「 終息宣言 」を発表。

 

 

寄生虫の中間宿主であっために ほぼ 絶滅させられてしまった

ミヤイリガイ。

 

その ミヤイリガイは 澄んだ、きれいな水のある場所に 棲息し、生活排水や 汚水が流れる所には 住めないという。

 

ミヤイリガイが 棲息しているのは 自然が豊かな証拠でもあったのだ……。

 

 

というわけで…

 

「 日本住血吸虫 」のことは キライでも、ミヤイリガイのことは キライにならないでください!